表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第2章:夜を継ぐもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/24

第14話:遠吠えの子守歌 ―幻獣、娘を寝かしつける―

 季節は、緩やかに夏の終わりへと傾き始めていた。


 ドラクロワ城が、最も静けさを深める時間。

 本来ならば、城に生きる者たちはそれぞれの私室へと引き上げ、永い夜の安らぎへ身を委ね始める頃だ。


「きょうは、おとうさまとねるの」


 西塔の一室に、断固たる幼い宣言が響いた。

 セレスティアは寝支度を済ませ、ルシアンの脚へこれ以上ないほど強固にしがみついている。


 ふわりと広がる寝間着の裾。まだ赤子の名残を留めた、丸い頬。

 そして父譲りの獣耳が、期待に満ちてぴんと立っている。

 ルシアンは顰め面をし、逃げ道を求めて視線を泳がせた。


「……なんで俺なんだよ。母さんと寝ろ」


「やだ。きょうはおとうさま」


「昨日もそう言ってただろうが」


「きょうも!」


 セレスティアの蒼い瞳には、一切の妥協がなかった。

 ベルローズはその様子を、椅子へ腰掛けたまま眺め、楽しげに目を細めた。


「諦めなさい。もう絶対にそうすると決めている顔でしょう?」


「他人事みてぇに言いやがって……」


 娘の頑固さが誰に似たのか、彼女はわかって言っているのだろうか。

 ルシアンは低く唸りながら、額へ手を当てた。


 戦場で魔導兵器の群れに囲まれた時でさえ、これほど疲弊した顔はしなかっただろう。

 だが結局、彼は娘の期待に満ちた視線の威力に抗えるほど、非情ではなかった。


「仕方ねぇな……。ほら、来い」


 諦めたように呟くと、ルシアンはセレスティアを軽々と肩へ抱え上げた。

 幼い彼女は、一瞬にして視界が高くなったことに歓声を上げ、彼の髪を掴む。


「たかーい!」


「暴れんな、落ちるぞ。……おい、耳を引っ張るな」


「おほしさま、ちかくにあるね!」


 セレスティアは窓の外、夜空へ手を伸ばしながら、無邪気に笑った。

 西塔の窓から見える空には、大小様々な星々が、無数に散りばめられている。

 その光を受け、彼女の黒髪の中に混じる輝きもまた、瞬いていた。


 ルシアンは肩に娘を乗せたまま、西塔の回廊を歩き出した。

 セレスティアの小さな身体が揺れすぎないよう、彼は無意識のうちに、石床のわずかな凹凸すら避けて足を運んでいる。


 回廊の窓からは、夜の庭園が見下ろせた。

 ベルローズの薔薇たちは月光を浴びて、静かに揺れている。

 夜の(とばり)の中でも、どこか温かな、血の通った気配を宿していた。


 やがて寝室へ辿り着くと、ルシアンは大きく息を吐き、寝台の端へ腰かけた。

 頭部に張り付いていたセレスティアをそっと抱き上げて、寝台へと降ろす。


「よし、寝ろ」


 だがセレスティアは即座に首を振り、枕元を指差した。


「……なんだよ」


「えほん、よんで。おとうさまのこえがいいの」


 ルシアンは眉間へ、深い皺を刻んだ。


「……なんで俺がそんな面倒なもんを」


 しかし、娘の潤んだ瞳が自分を射抜いている。

 結局、ルシアンは本棚から、適当な一冊を引き抜くしかなかった。


 それは、古い星図絵本だった。

 元々はピピが修復した、西塔に残されていた貴重な天文記録の一つである。

 ルシアンは嫌そうな顔を隠しもせず、ページを開いた。


「……空には、おおかみ座が輝いていました」


 読み方は硬く、声は妙に低い。

 絵本を読むときの感情の込め方など、彼には未知の領域だった。

 だがセレスティアは、その不器用な朗読を慈しむように、身を乗り出して聴き入っていた。


 父親が自分のためだけに、声を使ってくれている。

 彼女にとっては、その事実だけで満たされていた。

 時折、物語の内容そっちのけで、彼女は挿絵へ反応する。


「これ、おとうさま?」


「……違う。これはただの狼だ」


「でもにてる。かっこいいね」


「似てねぇよ。……お前、寝る気あるのか?」


 そんな押し問答を何度か繰り返し、ようやく絵本が終わった。

 ルシアンは、逃げるように頁を閉じ、セレスティアを柔らかな掛け布で包みこもうとする。


「終わりだ。さっさと寝ろ」


 だが当然、それでは済まなかった。

 彼とベルローズの娘なのだ、一筋縄ではいかない。


「うた!」


 ルシアンの動きがぴたりと止まった。


「……何?」


「こもりうたうたって。おかあさまはいつもうたってくれるもん」


 確かにそうだ。

 ベルローズはいつも、セレスティアを寝かしつけるときには、ドラクロワに伝わる古い子守歌を歌って聞かせているようだった。


 漏れ聞こえてくる優しい歌声に、ルシアン自身も心地よく耳を澄ましている。

 彼女の柔らかなその声を聞いているだけで、自分の中の獣も静まっていくような気がしていた。


 稀にピピやアマンダが指名され、寝かしつけを担当するときにも同様だった。

 ピピは、徹底的に調べ上げた古典的な子守歌を歌って聴かせる。

 アマンダは森の木々の囁きのような、不思議な旋律を綴っている。


 だからといって、とうとう自分にも歌えと要求してくるとは。

 ルシアンは居心地悪そうに、娘から視線を逸らした。


「……知らねぇよ、そんなもん」


「うたってー。おとうさまのおうたもききたいの」


 無邪気で、そして彼にとって、あまりにも残酷な要求だった。

 そんなもの、自分の生き方には無縁だと思っていた。


 群れにいた頃に必要だったのは、敵を威嚇する咆哮と、獲物を追い詰めるための荒い息遣いだけだ。

 眠りを守る温かな旋律など、孤独な獣の記憶には存在しない。

 そのはずだった。


 しかし、沈黙が部屋を支配し始めたとき。

 ルシアンの喉の奥から、ふいに低い旋律が零れ落ちる。

 その声に、まず彼自身が困惑したように眉を寄せた。


 人間の歌うそれとは似て非なる、深く緩やかに反復する旋律。

 遠い荒野で響く遠吠えのような響きを持ちながら、不思議と耳へは痛くない。

 むしろ、夜の冷たい空気の中へ、しっとりと溶け込んでいくような音色。


 セレスティアが、ぴたりと動きを止めた。

 ルシアンは自ら出した声に戸惑い、眉を顰めながらも、何かに導かれるように、無意識のまま歌い続けた。


 その旋律には、意味を成す言葉がほとんどなかった。

 古い幻獣語の名残のような、音の連なりがあるだけだ。


 それは本来、慈しむための歌とは似て非なるものだった。

 一族の戦士たちが、死の間際にある同胞の魂を鎮めるために捧げるような。

 暴走する魔力を眠らせるために唱えるような。古い鎮魂の響きだ。


 だが今、ルシアンの喉を通って紡がれるそれは、恐ろしいほど穏やかで、柔らかな音色へと変質している。


 西塔の空気が、さらに静まり返っていく。

 窓辺で揺れていた星灯り草が、ゆっくりと呼吸を合わせるように明滅した。

 室内に漂っていた、セレスティアの微弱な魔力の粒子も、その旋律に導かれるように落ち着きを取り戻し、彼女の元へと帰っていく。


 漏れ聞こえてくる歌声を聴いたベルローズ、ピピ、アマンダは、それぞれの場所で足を止め、驚きを隠せずにいた。

 あの、荒ぶる本能で他を威圧し続けていた幻獣が。

 彼の声に、これほどまでの静謐が宿るとは、誰が想像しただろうか。


 寝室の中では、セレスティアがルシアンの逞しい腕へ、ぴったりと寄り添っていた。

 眠気に抗えなくなったのか、彼女の小さな手は、父親の服の袖をぎゅっと掴んでいる。

 ルシアンは歌いながら、ぼんやりと、遠い記憶の断片を幻視していた。


 降り積もる雪、肌を刺す冷たい風、暗い洞窟。

 遠くで響く、群れの遠吠え。

 その奥に、輪郭すら定かではない、ぼやけた母の影。


 自分は一度として、愛されてなどいなかった。

 そう思っていた。


 群れから異端として、疎まれた忌み子。

 けれど、それならばこの旋律を、自分は一体どこで覚えたというのか。

 譜面など見たこともないのに、喉が、魂が。

 勝手に音を紡いでいる。


(……あぁ、そうか)


 もしかすると本当にわずかな、記憶にも残らないほど幼い時間だけは。

 あの母親も、自分へこの歌を聞かせていたのかもしれない。

 その微かな可能性だけが、彼の中で憎しみを溶かし、胸の奥へと静かに沈んでいった。


 やがて、歌声がゆっくりと途切れたころ。

 セレスティアは、すっかり眠りに落ちていた。

 長い睫毛を伏せ、安らかな寝息を零している。


 自分の歌で、自分の声で。

 この小さな尊い命が、自分を信じ切って眠った。

 その事実が、鎖で締め付けられるよりも激しく彼の胸を震わせ、ルシアンはしばらく動けずにいた。


 守ることは、誰よりも知っていた。

 牙を剥いて敵を屠り、奪わせないことなら、これまで嫌というほど繰り返してきた。

 だが、誰かを安らかな眠りへ導くために自分の声を使ったことなど、一度もなかったのだ。


「……お前がいなけりゃ、一生思い出さなかったかもな」


 ルシアンは眠る娘を見下ろし、自分によく似た蒼い瞳を隠す瞼の端を、そっと指で撫でる。

 先ほどまで乱暴に引っ張り回されていた彼の耳は、今は穏やかに伏せられていた。


 窓の外では、群青色の夜空へ、星々が永遠の瞬きを捧げている。

 西塔へ差し込む月光は淡く、寄り添い合う父娘の影を、石の床へ静かに落としていた。


 ルシアンは娘を起こさぬよう、慎重すぎるほど慎重に、身体を横たえた。

 そして小さな体温を、腕の内側へそっと囲い込む。

 セレスティアは眠ったまま、無意識に彼の服を強く握りしめた。


 その確かな温もりを確かめるように、ルシアンはゆっくりと、サファイアブルーの瞳を閉じる。

 彼にとっての故郷の残照は今夜、鋭い氷のような憎しみだけではなくなった。

 この部屋に響いた旋律は、誰かを安らかな眠りへ導くための優しい祈りとして、彼の魂に深く刻まれていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ