第13話:星屑の庭 ―幻獣の尾、玩具にされる―
月日は静かに、確かな轍を残して過ぎ去っていった。
ベルローズが慈しみ、魔力を注ぎ続けてきた薔薇たちが、初夏の陽光を吸い込んで艶やかに咲き誇っている。
深紅や黒紫。それぞれの花弁が重厚な香りを放ちながら、微風に揺れている。
薔薇の茂みが、磨き抜かれた石造りの回廊へ、幻想的な影を落としていた。
西塔の最上階では、朝から軽やかな足音が石床を叩いていた。
セレスティアは、もはや這いずって光を追いかけていた頃の幼子ではない。
小さな足で危なげなく走り、覚えたての言葉を使う。
内側に溢れる感情を、そのまま光の粒子として外へ零す、無垢な生命体へと成長していた。
ルシアン譲りの獣耳は、興奮や喜びを映して忙しなく動く。
漆黒の尾は機嫌の良さを隠そうともせず、左右へ揺れている。
「おとうさま! あそぼう!」
中庭で早朝からの訓練を終えたルシアンは、汗を拭いながら視線だけを娘へ向けた。
戦闘に出ることが減っていても、身体を鈍らせたままでいるのは落ち着かない。
「……朝から元気すぎんだろ、お前」
「げんき!」
迷いのない即答。
セレスティアは弾かれたように駆け寄ると、ルシアンの脚へ飛びついた。
「ねぇあそぼう」
ルシアンは耳を伏せ、よろけることもなく、娘の勢いを受け止めるだけに力を抜いている。
ベルローズはその様子を、長椅子に身を預けて眺めていた。
中庭が幼子の笑い声と、それを不器用に受け止める男の気配で満たされている。
その日常に、彼女は深い安堵を覚えていた。
「遊んであげたら? どうせ一度捕まったら、納得するまで逃がしてもらえないわよ」
ベルローズの言葉に、ルシアンはこれ見よがしに眉を顰めて見せる。
「いいのか? 俺がこいつと本気で遊んだら、この庭が幾つあっても足りねぇぞ」
口ではそう毒づきながらも、彼の蒼い瞳には優しい光が宿っていた。
「まぁ、手加減してやるよ」
ルシアンは腰を下ろし、濃藍色の長い尾をゆっくりと右側へ動かした。
セレスティアの視線が、獲物を見つけて釘付けになる。
次の瞬間、尾が左へと振られた。
「まってー!」
「遅ぇな」
歓声を上げて追いかける娘を、ルシアンは笑いながら翻弄する。
その尾の動きは、彼女が躓くような速度ではなく、かといって容易に捕まえさせるほど甘くない。
かつて戦場で死線を潜り抜けてきた幻獣なりの、極めて精密で、絶妙な加減だった。
「つかまえた!」
「上手く狩ったじゃねぇか」
やがてセレスティアが、叫びながら両手で尾にしがみつくと、ルシアンはふっと肩の力を抜いた。
彼はそのまま立ち上がり、尾を引きずるようにしてゆっくりと歩き始める。
「離すなよ。落っこちても知らねぇからな」
「うん!」
セレスティアはルシアンの尾にぶら下がり、魔法の絨毯に乗ったかのような得意げな顔で、回廊を運ばれていく。
その姿は傍から見れば微笑ましいが、ルシアンの歩幅は驚くほど慎重だった。
石畳の段差に差し掛かるたび、彼は筋肉を緊張させて揺れを殺した。
そうして、尾の角度を微調整して娘を支える。
王都の鋼鉄兵器を噛み砕いていた、その強靭な肉体。
それが、今はただ一人の幼子を揺らさぬよう、全神経を張り詰めさせているのだ。
再び庭園へ降りる頃には、セレスティアの機嫌は頂点に達していた。
陽光を浴びた庭は、夏の終わりの重い熱気を帯び、噴水の水音が心地よいリズムを刻んでいる。
セレスティアは、長身を屈めた父の尾からするりと降り立つ。
そして今度はルシアンの首元へ、小さな指先を伸ばした。
「あ、きらきら」
彼女が目を輝かせて見つめる先。
そこにあったのは、ルシアンの首を飾る、紫の薔薇を咲かせたベルベットのチョーカーだった。
無邪気な手がその布地を掴もうとした瞬間。
ルシアンの手がそっと、断固とした意志を持って娘の手を止めた。
「……こいつだけは駄目だ」
セレスティアは不満そうに頬を膨らませ、大きな瞳を見開いた。
「どうして? セレスもきらきらほしい」
「駄目なもんは駄目なんだよ」
「けち!」
ルシアンは珍しく返答に窮し、視線を泳がせた。
どう説明すればいいのか、彼にはわからなかった。
これは、単なる宝飾品ではないのだ。
血と憎悪に塗れていた自分に、ベルローズが初めて与えてくれた存在証明。
この城が自分の居場所であると安堵するための、絆のひとつ。
孤独だった獣が、ここに居てもいいと許された日の記憶。
それを、まだ昨日と明日の区別も曖昧な子供に説くほど、彼は器用な男ではなかった。
「お前の母さんに貰ったもんだ。世界に一つしかねぇ。……だから駄目だ」
「どうしてー!」
セレスティアは、納得いかない様子で足を踏み鳴らし、尾をばたつかせた。
ルシアンは困り果て、尖った耳をぺたりと伏せる。
「俺の耳なら、好きにしていいからよ」
「ほんと?」
「……ああ」
次の瞬間には、彼の耳は小さな両手によって、がっちりと捕獲されていた。
ルシアンは屈辱に顔を背けながらも、されるがままに耐え続ける。
その様子を回廊から見届けていたベルローズは、笑みを噛み殺そうと口元に手をやったが、こらえきれずに笑い声を漏らした。
「ルシアン、あなた……、セレスティアには完全に負けているわね」
「……うるせぇ。茶でも飲んでろ」
そう吐き捨てるルシアンの蒼い瞳は、水面を渡る月光のように、穏やかに澄んでいた。
その後、セレスティアは庭の奥でアマンダと合流した。
アマンダは籠を小脇に抱え、星灯り草や薬草を、一本一本丁寧に摘み集めている。
「セレスティア様、あまり走りすぎると危ないですよ。土が少し湿っていますから」
「だいじょうぶ、ころばないよ!」
幼子は忠告など風に流し、蝶を追いかけ、色鮮やかな花弁に指を触れ、光る露に歓声を上げる。
アマンダはその背中を、静かに見つめていた。
ベルローズが、孤独という名の呪いに縛られていたこと。
ルシアンが、奪うか奪われるかの地獄を生き延びてきたこと。
それらを知っている彼女にとって、何の疑いもなく世界に愛されているこの子の存在は、唯一の奇跡に思えた。
やがて、セレスティアはある一輪の蒼い薔薇の前で足を止めた。
その花は、ベルローズの根源的な魔力と共鳴し、季節を問わず咲き続ける。
冷たく澄んだ、サファイアのような色彩を湛えた大輪だ。
「きれい……」
セレスティアが、吸い寄せられるように小さな指先でその花弁に触れると、薔薇が淡く発光した。
最初は、花弁の露が光を反射しただけかと思うほどの、微かな輝きだった。
だが、光は瞬く間に花弁全体へ、そして茎から葉へと伝播していく。
それは夜空の星々をそのまま閉じ込め、結晶化させたような、清く蒼い輝きだった。
さらに、周囲に咲き乱れていた深紅や黒紫の薔薇たちまでもが、共鳴するように次々と光り始める。
庭園の空間そのものが、無数の星屑が降り注いだかのような光の海へと変貌していく。
「……これは」
アマンダは息を呑み、目を見開いた。
セレスティアの周囲では、小さな光の粒子がふわふわと浮かび上がり、幼い彼女を祝福するように舞い踊っている。
ただ純粋に「綺麗だ」と心震わせた喜びが、そのまま世界を照らす光となって溢れ出していた。
「……星の、魔力ですね」
アマンダはそっと、独白を零した。
ベルローズの魔力は、厳格な静けさのなかに、熱く咲く紅蓮。
ルシアンの魔力は、圧倒的な生命力に満ちた、冷たい野性の本能。
だが、この子に宿った力は、それらとは異なっていた。
彼女の力は周囲を、暗闇を照らし、導くための光。
少し離れた回廊で、ベルローズとルシアンがその光景を黙って見守っていた。
星屑のような光に包まれ、花々と対話するように笑う娘。
その髪や尾には、実体を持たないはずの光が、粉雪のように降り積もっている。
ベルローズは、その姿を瞳の奥に焼き付けるように見つめていた。
自分はドラクロワの魔女としてその力を恐れられ、愛されることには常に条件がつきまとい、孤独は必然だった。
それでも自分の娘は、すべての柵から解放されて笑っている。
「……綺麗ね」
ベルローズが小さく、祈るように呟いた。
ルシアンは何も言わず、ただじっと娘を見つめている。
やがて、彼は口元を緩め、鼻を鳴らした。
「あいつ、この城ごと手懐けやがったな」
庭園では薔薇たちが、星空を映したように輝き続けていた。
禁忌の森を渡る夕暮れの風が、その幻想的な光を揺らし、城壁の隅々まで温かな色彩を届けていく。
その中心には今、笑いながら光を降らせる、一人の小さな星が輝いていた。




