第15話:声を拾うため、温めるため ―耳と尾のおはなし―
西塔の寝室に、白く柔らかな朝の光が差し込み始めたころ。
ルシアンは、誰よりも早く目を覚ましていた。
かつての彼にとって、眠りとは弱さの露呈であった。
誰かの傍らで意識を手放すなどという行為は、自ら喉元を晒すに等しい愚行。
北方の極寒の峰でも、王都の冷え切った檻の中でも。
眠るとは、襲いくる危険を受け入れ、生存の確率を削ることでしかなかった。
けれど、ベルローズと共に眠るようになってからは、身を預けて眠ることを覚えた。
そして今、彼の腕の中には、小さくあまりにも柔らかな体温がある。
セレスティアは、彼の服をぎゅっと握りしめたままで、安らかな寝息を立てていた。
ルシアンは微動だにせず、ただその温もりを壊さぬよう、浅い呼吸を繰り返す。
潰してはいないか、冷えてはいないか、呼吸が途切れてはいないか。
何度も確認していたのに、彼は自分でも驚くほど、深く眠っていた事実に気づく。
腕の中の小さな存在に触れている方が、皮肉なことに、張り詰めていた彼の警戒心を解かせていたのだ。
ルシアンはその未知の感覚に戸惑いを覚えつつ、娘の無防備な寝顔を見下ろした。
やがて、セレスティアがゆっくりと瞼を持ち上げた。
まだ寝惚け眼の彼女の耳は、柔らかく伏せられている。
漆黒の尾も、眠気を含んだように、力なく揺れていた。
「おとうさま、おはよう……」
彼女は視界の端にルシアンの姿を捉え、安堵したように頬を緩める。
掠れた声で挨拶をすると、彼女は当然のように、ルシアンの長い尾へとしがみつく。
「起きたか。……朝から絡みつくな」
ルシアンは低くぼやいたが、その腕を解こうとはしなかった。
寝台から降ろす際も、シーツの端に小さな足が引っかからないよう、慎重に支える。
彼女が自らの足でしっかりと床を踏みしめるまで、その大きな手は添えられたままだった。
朝の支度が始まる。
ルシアンは、その手を不器用に使って、セレスティアの乱れた髪を梳かし始めた。
耳の周囲の毛並みを整え、尾についた寝癖のような乱れを、一つずつ指先で丁寧に直していく。
ピピのような几帳面さはないが、娘の耳や尾に触れる彼の手つきは、繊細さを湛えていた。
自分の肉体を、外敵に対するものとして扱ってきた男とは思えないほど、慈しみに満ちた手つきだ。
だというのに、ルシアン自身の身支度は、彼にとっては大した問題ではないらしかった。
自らの髪や尾は、いいかげんに手櫛で整えるだけで終えてしまう。
セレスティアは、ピピによって「小さな淑女のために」と用意された、かわいらしい鏡台を覗き込んだ。
そして自分の小さな耳に触れると、ルシアンの立派な耳を見上げる。
「おとうさまのおみみ、おっきいね。セレスもここにおみみあるよ」
「お前のも、そのうち大きくなるさ」
「でも、セレスとおとうさまには、おみみとしっぽがあるのに……、おかあさまにも、ピピにも、アマンダにも、どうしてないの?」
娘の尾を整えていた、ルシアンの指が止まる。
それは幼い好奇心から発せられた、何の悪意もない問いだ。
だが、ルシアンにとって、人間の姿に歪に付属した耳と尾は、疎外の記号でしかなかった。
幻獣の群れでは、忌まわしき異端として扱われ。
王都の人間たちには、死んでも幻獣の姿しか見せまいと耐えた記憶。
自分と同じ形質を受け継いだ娘に、忌むべき違いだとも、ただの個性だと軽く流すことも、彼にはできなかった。
ルシアンはセレスティアを抱き上げ、無言で西塔の窓辺へと歩んだ。
窓を開くと、風がルシアンの濃藍色の髪をなびかせた。
朝霧を纏った禁忌の森が、眼下に広がっている。
葉擦れの音、微かな虫の羽音、遠くで跳ねる水音。
そして、目覚めたばかりの森の獣たちの、微かな息遣い。
すべてが複雑に混ざり合い、静寂を編んでいる。
「聞こえるか?」
問われたセレスティアは、耳を懸命に動かした。
眉根を寄せて、真剣に耳を澄ませている。
「……かぜのこえ?」
ルシアンはサファイアブルーの瞳を少しだけ細め、森の奥を見つめたまま語り始めた。
「この耳はな。ただ、遠くの音を拾うためだけにあるんじゃねぇんだ」
かつての彼なら、こう答えただろう。
敵の足音を誰よりも早く聞くため、獲物の心音を逃さないため。
殺される前に殺すためだ、と。
だが今の彼は、娘の小さな耳に触れながら、絞り出すように言葉を続けた。
「お前の耳は、大事な奴の声を聞くために使え。……泣いてる声でも、助けてくれって声でも」
それは、自分自身に向けた言葉でもあった。
彼が群れや檻の中で、痛みに耐えようと、誰も来なかった。
助けを求めることすら、諦めていたのかもしれない。
大声で、助けを呼べるような者ばかりではない。
そしてそれは、彼の番も同じだった。
彼女の寂しさを、言葉にできない願いを、彼はずっと仕草や呼吸から拾ってきた。
「誰にも届かねぇような小さい声でも、ちゃんと拾ってやれ」
今の彼の耳は、ベルローズの呼吸を聞き逃さないため。
ピピが崩れた回廊の向こうで呼ぶ声を拾うため。アマンダが森で異変を感じた時に駆けつけるため。
そして、セレスティアが寂しくて泣いた時、誰よりも早く、その声へ気づくためにある。
「苦しんでねぇか、寂しがってねぇか。それを誰よりも早く知るために、その耳はあるんだ」
セレスティアは、父の言葉のすべてを理解するには、まだ幼すぎた。
けれど、彼が自分の内側にある、大切な何かを手渡そうとしていることだけは、直感で悟ったようだった。
彼女は自分の耳を両手で覆い、力強く頷いた。
「わかったよ。きこえるようにするよ」
ルシアンはぎこちなく視線を逸らし、今度は彼女の漆黒の尾をそっと撫でた。
彼の魂の色を分けたように、セレスティアの尾の先には、蒼い毛並みが混じっている。
「尾はな、大切な奴を暖めるために使え。……寒がってる奴がいたら巻いてやれ。怖がってる奴がいたら、そばにいてやれよ」
ルシアンにとって尾は、身体の均衡を取るための、獣の器官でしかなかった。
今では、ベルローズの冷えた身体を温め、眠るセレスティアを囲い込むための腕に変わっている。
感情を隠せない、厄介なものでもあるが。
「お前の尾は、誰かを縛るんじゃなく、独りにさせないためにある」
セレスティアは誇らしそうに、自分の短い尾を見つめた。
ルシアンのそれのように、誰かを力強く包むには、まだ頼りない。
それでも彼女は、意を決したように言った。
「じゃあ、セレスのしっぽで、おとうさまとおかあさまをあっためる!」
そう言って、彼女は精一杯、ルシアンの手首に自分の尾を巻きつけようとした。
けれど長さが足りず、先端がちょこんと触れるだけで終わってしまう。
ルシアンは絶句し、それから低く鼻を鳴らした。
「まだ短ぇな……」
その声には、からかいよりも深い、痛いほどの愛しさが滲んでいた。
「……なかなか、いい教えね」
背後で、静かな声がした。
いつの間にか、ベルローズが扉のそばに立っている。
彼女は父娘の会話を、最初から最後まで見届けていたのだ。
自分の角を隠され、異形であることを恥じるように仕向けられてきたベルローズ。
そんな彼女にとって、ルシアンが語った言葉は、あまりにも眩しい。
彼自身もまた、獣と人の狭間に立ち、深く傷ついてきたはずだというのに。
その血を娘へ呪いとしてではなく、優しさの形に変えて手渡している。
「おかあさま! セレスのしっぽであっためてあげるね」
セレスティアが駆け寄り、一生懸命に、ベルローズの手首に尾を巻こうとする。
ベルローズは床に膝をつき、その愛おしい尾の先を、指先で受け止めた。
「ありがとう。とても温かいわ、セレスティア」
実際の熱量は、仄かなものだ。
それでもベルローズの心には、陽だまりのような温もりが伝わっていた。
セレスティアは満足げに笑い、耳を動かす。
ルシアンは少し離れた場所で、その光景を見つめていた。
自分が伝えた言葉が、瞬く間に、誰かを温める行為へと姿を変えている。
その奇妙な安堵感。
幼い自分には、受け取れなかった愛だ。
そのままでは渡せない。
だがその痛みを知っているからこそ、別の意味に変えて渡すことは、できるかもしれない。
ルシアンはベルローズとセレスティアへ歩み寄ると、二人をまとめて包むように、静かに尾を回した。
窓の外では、朝霧の中で薔薇たちが光を浴び、禁忌の森が生命のざわめきを響かせている。
父から手渡された獣の血は、その朝、優しい約束として、セレスティアの中に深く根を下ろした。
セレスティアは再び耳を動かし、外の音に集中した。
まだ、すべての声を判別することは、彼女には難しい。
けれど彼女は幼い胸の中へ、大切にしまい込んだ。
自分の耳はいつか、誰かの小さな助けを呼ぶ声を、拾うためにあるのだと。




