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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第2章:夜を継ぐもの

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第11話:星を追う子 ―守るって難しい―

 禁忌の森は、夏の香りに塗り替えられていた。

 若葉の青臭さは影を潜め、濃密な緑の匂いが、湿り気を帯びた風に乗って運ばれてくる。


 修復された、西塔の最上階。

 大きな窓からは、心地よい風が通り抜けていく。

 昼間は陽光を、夜は月光と星々を、余すことなく招き入れている。


 揺籠を卒業したセレスティアは、はいはいを覚えた。

 自らの力で、好きな場所まで行ける。それがたまらなく愉快なようだ。


 彼女は大人が目を離した一瞬の隙に、驚くほど遠くまで移動してしまうようになっていた。

 ルシアンの幻獣の血が濃いのか、感嘆するほどの身体能力だ。


「もう、ぜんっぜん人間の育児書が参考にならない。なんなんだよ……」


 成長は、人間の子よりも幾分か早いらしい。

 ピピはセレスティアの後を必死に追いながら、毎日のように慌てている。

 まだ言葉も持たず、自らの足で立つことも叶わない、小さな身体。

 その蒼い瞳には、尽きることのない好奇心の光が、ただ爛々と灯っている。


 ある朝の始まり。

 ベルローズは窓辺に置かれた長椅子に腰を下ろし、古い星図や、魔力循環の記録を綴った書物を開いていた。

 かつての彼女なら、この静かな時間は至福のひとときであったはずだ。

 しかし今、彼女の視線は記された文字を追うことを忘れ、絶えず床の上を彷徨っていた。


 視線の先には、尾を忙しなく揺らしながら、窓から差し込む朝日を追いかけているセレスティアがいる。

 彼女は、空中に舞う微細な(ほこり)が、陽光に透けて光る様子に夢中だった。


 星の魔力を宿して生まれたせいか、彼女は光るものに対して強い執着を見せる。

 小さな手を精一杯に伸ばし、掴めるはずのない光の粒を捕まえようとする仕草。

 それはどこまでも無垢で、危うい。


「セレスティア、そっちは危ないわよ」


 ベルローズが、穏やかに制止の声をかけた瞬間。

 セレスティアは楽しげに喉を鳴らして笑い、反対方向へと進路を変える。


 彼女が向かったのは、重厚な木製棚の下にある、わずかな隙間だった。

 家具の下からはみ出しているのは、ルシアン譲りの蒼を毛先に宿した、漆黒の尾だけになった。


「……出ていらっしゃい」


 ベルローズは思わず額に手を当て、小さく息を吐いた。

 孤独を愛し、他人を拒絶して生きてきたドラクロワの魔女。

 それが今は、這いつくばって家具の下を覗き込み、愛娘を誘い出そうとしている。


「おい、セレスティアはどこ行った」


 低く落ち着いた声と共に、ルシアンがドアを押し開ける。

 彼は部屋へ足を踏み入れるなり、セレスティアの姿が視界にないことを悟ると、全身の筋肉を強張らせた。

 その様子は、戦いに身を置き、敵の奇襲を警戒していた頃と、少しも変わらない。


「家具の下よ……。隠れん坊のつもりかしら」


 ルシアンはそれを聞くなり、即座に棚の前へと(ひざまず)き、腕を脚の部分にかけた。


「待ちなさい。持ち上げるつもり? あなたがやったら棚を弾き飛ばしてしまうわ」


「……出てこねぇのが悪いんだろ」


 ベルローズに止められ、ルシアンは渋々腕を下ろした。


「出てこい。飯だぞ」


 彼はなんとか身を屈め、暗い隙間に向かって、およそ子供相手とは思えない無骨な声で呼びかける。

 すると、家具の奥から鈴を転がすような笑い声が響き、小さな手が這い出してきた。

 セレスティアは父親の顔を見つけるなり、歓喜の声を上げて、彼の尖った耳に手を伸ばした。


「きゃ!」


「……いっ、……お前」


 ぎゅ、と耳を掴まれたルシアンの肩がびくりと跳ね、身体が硬直する。

 痛覚よりも、得体の知れない愛おしさによる恐怖が、彼を金縛りにしていく。

 ベルローズは、娘に翻弄される幻獣の姿を見て、堪えきれずに声を漏らして笑った。


 ルシアンは、不器用な手つきでセレスティアを抱き上げた。

 彼は娘を腕に収めると、呼吸の間隔を確かめ、手のひらを額に当てて体温を測る。

 少しでも彼女が静かになると、彼は真剣な表情で娘の顔を覗き込んだ。


「……さっきより静かすぎる。魔力が弱まってるんじゃねぇか」


「遊んで疲れたのよ。……あなた、さっきから何回確認しているの?」


 セレスティアは父親の懸念など露知らず、起きている間は彼の尾を玩具にして笑っている。

 娘に合わせて寝転んだ彼の体によじ登ると、耳を容赦なく引っ張り、指を乳歯が生え始めた歯茎で噛もうとする。

 ルシアンの自慢の毛並みは、娘の(よだれ)で絶えずしっとりと汚れていた。


「……お前な。俺にこんなことできるのは、お前くらいなもんだぞ」


 それでも彼は、娘を遠ざけようとはしなかった。

 呆れたように眉を(ひそ)め、蒼い瞳を細めながらも、セレスティアが微笑んでいると悪い気がしない。

 ルシアンも、愛娘につられてつい口角を上げてしまう。


 一方、ピピは西塔の安全管理という、終わりのない任務に神経を擦り減らしていた。

 彼はあらゆる家具の角を丸く削り、階段には転落防止の結界を何重にも張った。

 床の石材のわずかな隙間さえも、魔力で埋めて回っている。

 だが、セレスティアという小さな嵐は、精霊の努力を嘲笑うかのように、予測不能な行動を取るのだ。


「ああっ、待って! その星図は食べ物じゃないんだってば……!」


 ピピの悲鳴が、塔内に響く。

 セレスティアは、ピピが修復した始祖の星図を、その小さな手でぐしゃぐしゃに丸め、口に運ぼうとしていた。

 ピピは泣きそうな顔で駆け寄ったが、セレスティアが彼を見上げ、悪びれもせずに満面の笑みを浮かべると、眉を下げて微笑んでしまう。


 かと思えばセレスティアは、ピピの背から生えた、(きら)めく一対の羽根に目を向ける。

 水晶のような結晶でできているそれは、常に清潔に保たれ、ピピの自慢であった。


「それが気に入ったの? ……わかった、好きにしていいよ」


 本来ピピは、自分の体が誰かに触れられて汚れるなど耐えられない。

 それでも、楽しそうな声を上げるセレスティアに、経験したことのない気持ちがこみあげてくる。

 自分が、この小さな生き物に必要とされているという喜び。

 ピピは微かな笑みを浮かべ、ぺたぺたと羽根に触れる手の質感を、じっとこらえていた。


 昼下がり、アマンダが西塔の周辺に植えられた星灯り草を摘んで戻ってきた。

 セレスティアは、その淡く発光する植物をひと目見るなり、ルシアンの腕の中で激しく身体を揺らして手を伸ばした。


「おい、大人しくしろ」


「セレスティア様は、本当に光るものが好きですね」


 アマンダが穏やかに微笑むと、セレスティアが応えるように笑った。

 その笑みに呼応して、部屋の空気に小さな星屑のような光の粒が、ふわりと漂った。

 

 彼女はまだ幼く、魔力制御など微塵もできない。

 ただ嬉しいという感情が、そのまま魔力の放射となって、周囲へ滲み出しているのだ。

 その光は、西塔の薄暗い石壁を優しく、幻想的に照らし出していた。


 夕方になり、遊び疲れたセレスティアは、ルシアンの胸の上で深い眠りについた。

 西塔の窓からは夕焼けが差し込み、傍らではアマンダが置いた星灯り草が、夜の訪れを予感して淡く輝き始めている。


 ルシアンは長椅子に深く腰を下ろしたまま、微動だにしなかった。

 腕の中の小さな寝息を壊すまいと、彼自身の呼吸すら浅くなっている。


「そんなに固まっていたら、あなたの方が先に身体を壊すわよ」


 ベルローズが呆れたように声をかけるが、ルシアンは前を見据えたまま答えない。

 彼は全神経を尖らせて、腕の中の鼓動だけを拾い続けていた。


「小さいやつを守るってのは、こんなに不自由なもんなのか」


 不意に、低い独白がルシアンの唇から零れた。


「……こいつが息をしてるのを確認するたびに、心臓の奥が焼けそうになんだよ」


 失うことへの恐怖。

 守りたいものができた者だけが、その代償として支払うことになる鈍い痛み。

 ベルローズはしばらく沈黙を守り、それから静かに彼の隣へ腰を下ろした。


「それでも、もう独りだったころには戻れないでしょう? ……私もそうよ」


 セレスティアは眠ったまま、小さな手でルシアンの服をぎゅっと掴んでいる。

 ルシアンの耳が、安堵したようにぴくりと揺れ、長く太い尾がゆっくりと床へ落ちた。


 彼は眠る娘を抱く腕へ、さらに慎重に、優しく力を込める。

 西塔の窓の外では、彼の髪の色によく似た群青色の夜空へ、最初の星が灯り始めた。

 この小さな生命が進むべき未来を祝福するように、星は清らかに瞬き続けている。

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