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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第2章:夜を継ぐもの

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第10話:母のことば ―「愛してる」のたった一言で―

 西塔の最上階に新しく、子供部屋が整えられてからというもの。

 城の夜は以前よりも、少しだけ空に近くなったように感じられる。


 ベルローズは、揺籠の傍らに置いた椅子に腰掛け、安らかな寝息を立てる娘を見つめていた。

 彼女の深紅の瞳は、赤子の小さな身じろぎひとつに、何の計算もなく自然と反応している。


「ふぁ……」


「……どうしたの、ご機嫌斜めなの?」


 セレスティアが不機嫌そうに声を上げ、ぐずり始める。

 ベルローズは躊躇(ためら)うことなく立ち上がり、まだ首も頼りない体を、慎重な手つきで抱き上げた。


「怖い夢でも見たのかしら。……大丈夫よ、ここにいるから」


 胸元に引き寄せた赤子からは、生きている命そのものが放つ体温が感じられた。

 甘い匂いと、仕立てられたばかりの産着の、柔らかな質感が伝わってくる。

 ベルローズの唇から、驚くほど滑らかに言葉が零れ落ちた。


「……かわいい子ね。大好きよ、愛しているわ」


 彼女が無駄な感傷として切り捨ててきた、甘い言葉の数々。

 それが不思議と、この腕の中の小さな命に対してだけは、何の抵抗もなく溢れだす。


 窓辺には、ルシアンが静かに立っている。

 ルシアンははじめ、ベルローズの優しい声を穏やかに受け止めていた。

 だが、その言葉が夜気に乗って彼の耳に届いたとき。濃藍色の耳が、ぴくりと不自然に跳ねた。


 ルシアンの胸の奥に、得体の知れない、奇妙な引っかかりが生まれる。

 ほんの、小さな違和感だった。


 ベルローズはその反応に気づくことなく、腕の中のセレスティアをあやし続けている。

 やがて赤子が完全に落ち着き、母の胸元で深い眠りに落ちると、ベルローズはその額にそっと唇を寄せた。

 そして彼女はもう一度、誓うように囁いた。


「愛しているわ」


 ルシアンの蒼い瞳が、月光を反射して揺れる。

 娘を慈しむ彼女の姿は、彼の魂を震わせるほどに美しく、胸を満たす光景だ。

 だが同時に、彼は自覚してしまった。


 ベルローズのそんな声を、初めて聞いた気がした。

 静かな、祈りのような響きだ。

 あの冷たさを纏っていた彼女が、あんな声で誰かへ言葉を向けるようになったのか。

 少し遅れて、彼のなかにひとつの感情が頭をもたげる。


(――俺は、あんなふうに言われたこと、あったか?)


「傍にいて」や「離れないで」。

 気高い彼女が、命令ではなく自分にぶつけてくるようになった欲求。

 自分にだけは角に触れさせること、同じ寝台で眠ること。

 

 それらすべてが、彼女なりの愛情だったことは理解している。

 今でもそれで十分だと思っているのに、どうしても気にかかった。


 ◆


 翌朝、ルシアンは、明らかに様子がおかしかった。

 朝食時、ピピが用意した厚切り肉のローストを前にしても、口数が極端に少ない。

 いつもならぴんと立ち上がる耳が、どことなく後ろに寝がちで、尾の揺らぎも重く鈍い。


 ピピは、その異変に真っ先に気づいていた。

 昼を迎えても、未だぼんやりとしている幻獣。

 彼は灰色の瞳を細め、ルシアンを見つめて問いかける。


「ねぇルシアン、昨日からやけに静かじゃないか。まさか、また僕が磨いたばかりの床に泥でも落として、後ろめたいとか?」


「……別に。何でもねぇよ」


 ルシアンは低い声で返したが、ピピの観察眼は欺けない。

 ピピは呆れたように腰に手を当て、ルシアンをじろりと眺めた。


「あのさ、僕に嘘ついたって仕方ないだろ? その耳と尾、あからさまに『落ち込んでます』って形してるし。何があったのか言ってごらんよ」


 ルシアンはしばらく、腕を組んだままで黙り込んでいた。

 やがて、ピピのしつこい視線に根負けし、喉の奥で不満げな音を鳴らす。


「……あいつが。セレスティアに、愛してるとか、大好きとか言ってやがったから」


「は? ベルローズ様が、ご自分の娘に愛を注ぐのは当然だろ。それが何だっていうのさ」


「わかってる。……俺は、あんなふうに言われたことねぇ、と思っただけだ」


 ぽつりと漏らされたその呟きに、ピピは言葉を失った。

 それから、額を押さえて深い息を吐き出す。


「本気で言ってるの? あのベルローズ様が、平気でそんな言葉を誰かに振り撒くわけないじゃないか」


「わかってるって言ってるだろ。セレスティアに言ってるのが気に入らないわけじゃねぇよ」


 ピピは呆れ果ててはいたが、ルシアンを笑い飛ばすことはしなかった。

 彼の瞳に宿る真剣さ。単に甘い言葉を欲しがっているという、贅沢な悩みではないようだ。

 それくらいは、ピピにはもう簡単に判別できる。


「……とても、面白いお話をしていますね」


 影から滲み出るようにして、アマンダが姿を現した。

 彼女はからかう風でもなく、ただその出来事を穏やかに受け止める。


「言葉にしなくても伝わると思っていたものほど、いざ別の形として言葉にされた途端、急に羨ましくなるものですね」


「アマンダ。君はほんっと、暢気(のんき)だね……」


「だって、ベルローズ様もルシアンさんも、ずっと行動でしか愛を示してこなかったのですから。仕方がありません」


 核心を柔らかく突く言葉に、ルシアンは返す言葉を失う。

 そこへピピが追い打ちのように、意地悪く、しかし極めて真っ当な疑問を投げかけた。


「というかさ、ルシアン。そもそも君は、ベルローズ様に愛してるとか、好きだとか、自分から言葉にして伝えたことあるわけ?」


「…………」


 ルシアンは完全に黙り込んだ。

 言っていない。

 ただの一度も、そんな洗練された言葉を口にしたことはなかった。


 命を懸けて彼女を守り、その傍らに居座っている。けれど、言葉にはしていない。

 ルシアンの耳が、目に見えてしょんぼりと沈み込んだ。


「何を騒いでいるの?」


 回廊の曲がり角から、セレスティアを抱いたベルローズが、静かな足取りで現れた。

 ピピは悪戯っぽい笑みのなかに優しさを混ぜて、主へと告げた。


「ルシアンが、ベルローズ様に『愛している』と言われたことがないと。耳を垂らして落ち込んでいるところです」


「勝手に話すな……」


 ルシアンは深い溜息を吐き出し、ピピを睨みつける。

 ピピは鋭い視線に少しも怯まず、慣れた調子で、さらりと受け流した。


「僕は事実しか言ってないよ」


「落ち込んでねぇ。気になった、ってだけだろ」


 ベルローズは睫毛を伏せて少し考え、淡々と、逃げ場のない正論を差し出す。


「……あなただって、私にそんな言葉、言わないでしょう」


 責めるような響きは一切ない。ただ冷徹なまでに正確な指摘だった。

 ピピは「ほら見ろ」とばかりに肩をすくめ、アマンダは満足そうに微笑んでいる。


「だから、言えって迫ってるわけじゃねぇよ。……ただ」


 ルシアンは言葉に詰まり、顎を引いて視線を彷徨わせた。


「ただ……。あんたがあんな声出すの、初めて聞いた気がして……、驚いただけだ」


「……そうかしら」


 ベルローズは、ルシアンの耳が頭の形に沿って伏せられているのを見て、つい目元を緩めた。


「まぁ、いいわ。……少しだけ、声を落としてちょうだい。セレスティアが起きてしまうから」


 短い命令と共に、彼女は日常の所作のまま、何事もなかったかのようにその場を収めた。


 その日の夜。

 西塔の揺籠の中では、セレスティアが静かな呼吸を繰り返している。

 ベルローズは揺籠の傍らに座り、ルシアンは少し離れた窓辺に、身を置いていた。


 昼間の会話の残照が、ふたりの間に不器用な沈黙を形作っている。

 ベルローズは、視線を上げずに静かに問うた。


「まだ気にしているの?」


「何がだよ」


「……昼間に言っていたことよ」


「気にしてねぇ」


 ルシアンはぞんざいに答えたが、窓硝子に映る彼の耳は、微かに後ろへと傾いていた。

 その嘘のつけない性質を、ベルローズは知っている。


 彼女はセレスティアの安らかな寝顔を見つめながら、自分が娘に無意識に向けた言葉を思い返していた。

 あれは気づけば胸の奥から溢れ、零れ落ちていたものだ。


 けれど自分が、小さな命に「愛している」と言えるように変わったこと。

 その変化の土壌を作ったのは、他でもない、目の前の彼のおかげなのだ。

 ベルローズは、ルシアンの方へとゆっくりと向き直った。


「私は、言わなくても伝わっていると思っていたわ」


「……俺もだ」


 ルシアンの声は低く、芯が通っていた。


 ベルローズは席を立ち、ルシアンの元へと歩み寄った。

 彼女は手を伸ばし、ルシアンの頬から、耳の下の柔らかな毛並みへと、静かに触れる。

 ルシアンはこそばゆそうに、きゅっと片目をつむった。


「あなたが傍にいてくれるから、私はこの子に、優しく呼びかけられるのだと思うわ」


 ベルローズの深紅の瞳が、ルシアンを射抜く。

 その眼差しに宿る真摯さに、彼は目を細めた。


「あなたがいてくれるから……、この子も私も、こうして眠れるのよ。……ルシアン」


 それは彼女が紡ぎ得る、最大級の「愛している」の言い換えだと、ルシアンにはわかっている。

 ルシアンは彼女の手のひらの温もりを受け止めて、短く応じた。


「……わかってるよ」


 揺籠の中で、セレスティアが小さく身じろぎし、柔らかな手を開いた。

 ベルローズがその小さな手に自らの指を添え、ルシアンもまた、その手をごく自然に反対側から差し出した。


 窓から差し込む星灯りが、三人の重なる手元を、静かに照らし出している。

 ベルローズはそれを愛しげに見つめ、ぽつりと切り出した。


「……それで?」


「何だよ?」


「やっぱり、あなたも言って欲しいのかしら」


 ルシアンは、ほんのわずかに目を見開いた。

 それから耳をぴくりと動かすと、目を細めて彼女を見つめる。


「別に。……あんたが顔真っ赤にして、無理してるの見たいわけじゃねぇからな」


「……そう」


 ベルローズは平静を装おうとしたが、彼の視線から逃げるように、目を逸らした。

 仕掛けたのは自分だったはずなのに、結局彼には負けている気がして、無性に腹立たしかった。

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