第9話:西塔の星灯り ―星のお部屋ができました―
セレスティアがこの世に産声を上げてから、数週間が過ぎた。
ドラクロワ城を包む空気は、これまで存在しなかった種類の静けさを湛えている。
眠る小さな命を中心に、城全体の時間が緩やかに回る。慈しみに満ちた静寂だ。
ベルローズの私室は、夜の帳が下りる頃、最も幻想的な光に満たされる。
窓から差し込む青白い月光は、揺籠の中で微睡む赤子の肌を、淡く照らし出していた。
母譲りの、セレスティアの黒髪。
それは光を浴びるたびに、星屑を散りばめたような、微細な輝きを放っている。
まるで夜空の一部を切り取って、編み込んだかのようだった。
ふいに、セレスティアがぐずったように声をあげた。
「あら、どうしたの?」
ベルローズは音を立てぬよう椅子を引き、揺籠から娘を静かに抱き上げた。
指先で触れる頬は、産まれたての温かな弾力に満ちている。
小さな獣の耳。そして、産着の裾から覗く漆黒の尾。
尾の先には、父であるルシアンから譲り受けた鮮やかな蒼が、宝石の原石のように混じっていた。
「かわいいお耳としっぽね」
ベルローズは一人呟きながら、娘の額に自らの指を這わせる。
そこには、魔女の象徴である硬質な角の芽は存在しなかった。
彼女の胸の奥で、安堵と、言葉にできないほど微かな寂しさが交錯する。
自分と同じ角を持つ魔女として、苦しみを背負わずに済むという、母としての確かな安心。
けれど同時に、ドラクロワの血筋が持つ美しい角を宿した娘の姿を、どこかで見てみたかったという、否定しきれない憧憬。
(……この子は、私とは違う道を歩むのね。当然と言えば当然だわ。娘とはいえ、私の分身や所有物というわけではないもの)
ベルローズが、娘の柔らかな肌に額を寄せ、その無垢な重みを噛み締めていたとき。
俄かに扉が音もなく開き、ルシアンが入室してきた。
彼はセレスティアが身じろぎをして泣き声を上げただけで、即座に姿を現すようになっていた。
もはや彼の鋭敏な感覚は、戦場を警戒するためではなく、娘の異変を察知するそれへと変貌を遂げている。
「起きたのか?」
ルシアンは声を潜めながら、ベルローズの隣へ歩み寄った。
彼の蒼い瞳には、愛しきものを見守る深い困惑と、情熱が混ざり合っている。
「寝惚けているだけよ。……さぁ、ルシアンにも抱っこしてもらいたいわよね?」
「……仕方ねぇな」
ベルローズに促され、ルシアンは大きな手を差し出した。
初めて抱き上げた時の、あの硬直に比べれば、今の彼は幾分か慣れて見えた。
彼の心を繊細に映す耳や尾も、固まることなく落ち着いている。
それでも、自分の掌よりも遥かに小さな頭を支えるとき。
彼はいつも、世界で最も壊れやすい結晶を扱うような危うさを露呈させる。
「これで合ってんのか……?」
不安げに眉を寄せるルシアンに、ベルローズは小さく笑みを返した。
「ええ。前よりずっと上手になったわ」
セレスティアがふいに目を開き、蒼い瞳が露わになった。
瞳の中にも、星空のような輝きが宿っている。
ルシアンの瞳を色濃く受け継ぎながらも、その縁を彩る長い睫毛や、結ばれた唇の形は、鏡を見るようにベルローズに似ていた。
赤子はルシアンの長い指を小さな手で握りしめ、何かを確かめるように彼を見上げる。
「……あなたにそっくりね」
「目は俺だな。この気が強そうな口元はあんたに似てる」
ルシアンは照れ隠しのように鼻を鳴らしたが、その視線は片時も娘から離れなかった。
かつて孤独を誇り、独りで死ぬことを疑わなかった彼。
それが今は小さな生命にその指を預け、自らの不器用さを露呈させている。
その光景こそが、ベルローズにとっての救いだった。
夜が深まるにつれ、不思議な現象が起き始めた。
窓から差し込む月光が一段と強くなるころ。
部屋の中に淡い星明かりのような粒子が漂い、セレスティアの周囲で蛍のように舞い踊る。
ベルローズの蒼角がそれに呼応するように熱を帯び、柔らかな共鳴音を空気に刻んでいる。
アマンダが、温めた薬草の香りを漂わせながら、静かに部屋へ入ってきた。
彼女は琥珀色の瞳を細め、宙を舞う光の粒子を、愛おしそうに見つめる。
「……森の呼吸とも、大地の脈動とも少し違う。この子は、高い場所の気配を連れてきたようです」
アマンダの言葉に、扉の影で聞き耳を立てていたピピが、弾かれたように飛び込んできた。
「やっぱりそうか。この魔力の波形、星の観測記録に近いと思ってたんだ」
ピピは手にしていた図面を広げ、顎に手をやってぶつぶつと呟き始めた。
「セレスティア様は、星と月の加護を受けている。なら、こんな風通しの悪い場所じゃだめだね。もっと空に近い場所……、西塔の最上階を修復して、そこを子供部屋にしなくちゃ」
西塔。
そこはドラクロワの始祖が、星の動きを読み、世界の理を観測していたという古い天文塔だった。
長年の放置と戦火により崩落しかけていたが、ピピの灰色の瞳には、すでに完成した美しい展望室が映っているようだった。
「絶対に、あの部屋をセレスティア様の部屋にする……。石を積み直すぞ、ルシアン! 寝てる場合じゃない!」
「俺は構わねぇけどな。……夜中だぞ、ピピ」
文句を言いながらも、ルシアンの尾は確かに揺れている。
やる気は充分なようだった。
しかし、ベルローズは冷静に彼らを制止した。
「ピピ? しっかりと休んでから始めればいいのよ。あなたに体を壊されては困るわ。それこそ私だけではなく、皆が」
「そうですよ。さ、今日はお部屋に戻りましょうね」
珍しく、アマンダが正しかった。
ピピは何事か文句を言いながらも、アマンダに引きずられるようにして私室へ戻っていった。
そこからの城の動きは、異様なまでに早かった。
ピピは寝る間を惜しんで石を操り、西塔の補強を開始した。
ルシアンもまた、建材の運搬を担っている。
かつては破壊のために使っていたその力を、娘の揺籠を守る壁を築くために注ぎ込んだ。
アマンダは西塔の周囲に、夜になると花弁の中に光を灯す『星灯り草』や、月光を浴びて開く夜咲きの花々を植えている。
夜になると、塔全体が淡い光の帯に包まれ、地上に降りた小さな銀河のように見えた。
ベルローズはセレスティアを抱き、その慌ただしくも温かな光景を眺めていた。
自分は正しく在ることでしか、存在を許されなかった。
この子は違う。まだ何もなさず、何も語らない。
それでもこの城のすべてに、そしてここに生きるすべての者たちに、これほどまでに愛されている。
(……あなたは本当に幸福な子ね、セレスティア)
ベルローズは娘に、愛しげに頬を寄せる。
セレスティアは彼らの献身に応えるように、むにゃむにゃと機嫌よく口元を動かしていた。
数日後。
修復が大急ぎで進められた西塔の最上階に、新しい揺籠が置かれた。
大きく取られた窓からは禁忌の森を一望でき、頭上には遮るもののない満天の星空が広がっている。
調度品は、淡い青で揃えられた。
保管されていた星図や天文に関する書物は、ピピによって埃を掃われた後、改めて運び込まれた。
揺籠の中で眠るセレスティア。
窓の外の星々に呼応するように、彼女の黒髪に宿る光の粒子が煌めいていた。
ルシアンは揺籠の側に立ち、窓の外の星空と娘を交互に見比べ、微かな笑みを浮かべている。
夜の風を受けた彼の横顔は、穏やかだった。
ドラクロワ城に降り注ぐ星の光は、かつての暗い呪いを塗り潰すようだ。
星々は清らかに力強く、新しい物語の始まりを照らし続けている。




