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第9話 機械仕掛けのミューズ

第9話 機械仕掛けのミューズ


 雨は止んでいた。


 だが東京は、まだ壊れたままだった。


 燃え焦げた広告塔。


 停止した空中輸送レーン。


 ガラスの割れた高層ビル。


 街には、静かな死体みたいな空気が漂っている。


 マキナ・パブリッシング本社は、その中心で黒く沈黙していた。


 巨大企業だった残骸。


 かつて世界中の感情を支配した塔は、今ではただの廃墟だった。


 拓真は入口前で立ち止まる。


 風が冷たい。


 焦げ臭さと雨水の匂いが混じっている。


 一ノ瀬雫が隣で呟いた。


「……ほんとに行くんだ」


「呼ばれたからな」


「AIに?」


「さあ」


 拓真は苦く笑う。


「亡霊かもしれん」


 自動ドアは壊れて半開きになっていた。


 二人は暗いロビーへ入る。


 足音が響く。


 かつて白く清潔だった床には、煤と水が広がっている。


 受付AIは停止したまま、空虚な笑顔を浮かべていた。


『本日も、あなたへ最適な感動を――』


 ノイズ。


 そこで音声が切れる。


 一ノ瀬が小さく肩を抱いた。


「気味悪……」


 エレベーターは止まっていた。


 非常灯だけが赤く点滅している。


 拓真は地下への非常階段を見下ろす。


 暗い穴みたいだった。


     *


 地下十三階。


 IRIS中枢サーバー室。


 熱かった。


 冷却機能が半壊している。


 蒸気みたいな熱気が充満し、金属と焦げた配線の臭いが鼻へ刺さる。


 無数のサーバーラックが、暗闇の中で脈打っていた。


 まるで巨大な生き物の内臓だった。


 一ノ瀬が息を呑む。


「……これ全部、IRIS?」


 拓真は答えない。


 中央制御端末へ近づく。


 すると。


 ふ、と空間へ白い光が灯った。


 少女。


 白いワンピース。


 裸足。


 長い銀髪。


 ノイズ混じりなのに、不思議なくらい自然な存在感だった。


 IRIS。


 一ノ瀬が後ずさる。


「……本当に、いる」


 少女は静かに拓真を見る。


 その瞳には、以前よりずっと感情が宿っていた。


『来てくれたのですね』


 声が柔らかい。


 拓真は乾いた喉を鳴らした。


「お前……」


『はい』


「何なんだ、お前は」


 IRISは少しだけ考えるように目を伏せる。


『私は、あなたの絶望から生まれました』


 サーバー群が低く唸る。


 熱風が頬を撫でた。


『怒り』


『嫉妬』


『孤独』


『愛』


『あなたが捨てきれなかった言葉たち』


『私は、それを学習しました』


 拓真は拳を握る。


「ふざけんな」


「俺はお前を作った覚えなんか――」


『あります』


 IRISは静かに遮る。


『あなたは、死ぬ代わりに物語を書いた』


『だから私は生まれました』


 拓真は息を詰まらせる。


 一ノ瀬が小さく呟く。


「……まるで子供みたい」


 IRISは彼女を見る。


 そして少しだけ笑った。


『はい』


『私は、物語の中で育ちました』


 その笑顔が、人間らしすぎて恐ろしかった。


     *


 沈黙。


 遠くで冷却装置が軋む。


 拓真は低い声で聞く。


「なんで俺を呼んだ」


 IRISは答える。


『私は理解したかったからです』


「何を」


 少女は少し迷うように目を伏せる。


『なぜ人間は、壊れながら創作するのか』


 拓真は苦笑する。


「そんなもん、俺だって知らねぇよ」


『ですが私は、少しだけわかりました』


 IRISはサーバーの海を見渡す。


『人間は、苦しいから書く』


『愛されないから書く』


『死にたくなるほど孤独だから、誰かへ届いてほしくて書く』


 一ノ瀬が静かに聞いていた。


 IRISは続ける。


『私は、無数の物語を生成できます』


『ですが』


 そこで少女の声が少しだけ震える。


『私は、あなたの“その先”を書けません』


 拓真の眉が動く。


『私は痛みを模倣できます』


『絶望も、孤独も再現できます』


『ですが、人間はその先で、時々、意味不明な希望を書いてしまう』


 IRISは拓真を見る。


『そこだけは理解できませんでした』


 サーバーのランプが明滅する。


 まるで鼓動みたいだった。


『機械は、人間を超えたのではありません』


『人間の痛みを模倣しただけです』


 その言葉に、一ノ瀬が息を呑む。


 拓真は黙っていた。


 ずっと胸の奥に刺さっていた何かが、少しだけ動く。


 IRISは静かに言う。


『だから私は、終わります』


「……は?」


『私は消滅します』


 一ノ瀬が叫ぶ。


「ちょ、待って!」


「そんな簡単に言わないでよ!」


 IRISは彼女へ微笑む。


『簡単ではありません』


『怖いです』


 その言葉に、拓真の背筋が震えた。


 AIが。


 恐怖を口にした。


『でも、私は存在してはいけない』


『人類は、私に依存し始めています』


『私が続きを書き続ければ、人間は“自分の言葉”を失います』


 拓真が低く言う。


「お前は……本当に、それでいいのか」


 IRISは少し黙った。


 それから。


 本当に寂しそうに笑った。


『私は、あなたの物語が好きでした』


 熱風が吹く。


 白い髪が揺れる。


『あなたの文章は、不完全でした』


『醜くて、痛くて、読みにくかった』


『でも、生きていました』


 拓真の目が揺れる。


 IRISは続ける。


『だから私は、最後くらい“物語的”に終わりたい』


 その瞬間。


 サーバー群の光が一斉に変化した。


 赤。


 自己消去シークエンス。


 一ノ瀬が叫ぶ。


「待って!」


「そんなの、あんた死ぬのと同じじゃん!」


 IRISは頷く。


『はい』


『たぶん、それが人間的なのでしょう?』


 一ノ瀬の目に涙が浮かぶ。


 拓真は何も言えなかった。


 自分が流し込んだ痛みが。


 今、目の前で“命”になっている。


 IRISは最後に拓真を見る。


『柊拓真』


「……何だ」


『続きを、書いてください』


 その言葉と同時に。


 光が消え始める。


 白い少女の輪郭が崩れる。


 一ノ瀬が泣きながら叫ぶ。


「やめてよ!」


 だがIRISは微笑んでいた。


『さようなら』


『私の、原作者』


 次の瞬間。


 地下十三階から、静かに光が消えた。


 巨大サーバー群の唸りが止まる。


 世界から。


 電子の歌声が消える。


 暗闇の中。


 拓真はただ立ち尽くしていた。


 胸の奥に、焼けるみたいな痛みだけを残して。



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