第1話 インク亡霊
第1話 インク亡霊
地下七階の校閲室は、古い冷蔵庫みたいな臭いがした。
冷却装置の風に混じって、湿った鉄と埃の匂いが漂っている。窓はない。昼も夜もわからない。白すぎるLED照明だけが、人間の顔色を死人みたいに青く照らしていた。
柊拓真は、端末に映る文章を無言で修正していた。
画面には、AI生成小説の本文が高速で流れていく。
『彼女の涙は、まるで月光のように美しかった』
拓真は小さく眉を寄せる。
「月光に粘度はないだろ……」
独り言を漏らしながら、表現を修正する。
涙の描写。呼吸音。指先の震え。感情の熱量。
AIは完璧な構造を作れる。だが、生身の人間が夜中にひとりで泣く時の空気だけは、どうしても書けなかった。
隣席の男が缶コーヒーを投げて寄越した。
「おい、柊。休憩しろよ。死人みてぇな顔してるぞ」
「元からだ」
缶を受け取る。ぬるい。
プルトップを開けた瞬間、安っぽい甘い匂いが鼻についた。
校閲室では、誰も目を合わせない。
ここにいるのは全員、“終わった作家”だからだ。
賞を取れなかった者。AIに職を奪われた脚本家。売れなくなった小説家。
彼らは今、AIの誤字を直すためだけに存在している。
インク亡霊。
それが世間の呼び名だった。
拓真は冷えた指でキーボードを叩きながら、ふと壁面モニターを見上げた。
巨大広告が流れている。
『あなた専用の感動を、一秒で』
『IRIS最新文学パック、本日配信開始』
美しい女優が涙を流しながら笑っている。
その横に映る男を見た瞬間、校閲室がざわついた。
「おい、神崎じゃねぇか」
「また賞取ったらしいぞ」
「年収、国家予算並みなんだってな」
神崎蓮。
拓真の同期だった男。
整った顔。高級スーツ。余裕の笑み。
インタビュアーが尋ねる。
『神崎さん。創作に必要なものって何だと思いますか?』
神崎はワイングラスを揺らしながら笑った。
『才能なんて時代遅れですよ』
『今は、“どのAIを使うか”の時代です』
校閲室に乾いた笑いが起きた。
「聞いたか、柊」
「お前の嫌いな言葉だな。才能」
拓真は答えなかった。
ただ、モニターの中の神崎を見続けていた。
学生時代を思い出す。
薄暗い喫煙所。
原稿を読み合った夜。
神崎は昔、純文学を書いていた。
誰より熱心だった。
だが新人賞の最終選考で、拓真だけが通った。
あの日からだ。
神崎が笑わなくなったのは。
勤務終了のチャイムが鳴る。
誰も会話せず、亡霊みたいに席を立つ。
拓真はロッカーから古びた紙袋を取り出した。
中には分厚い原稿。
十年間、書き続けた小説だった。
紙だけは捨てられなかった。
地下を出ると、夜の雨が降っていた。
ネオン広告が濡れた路面に滲んでいる。
空中スクリーンには、AI生成ドラマの宣伝が無数に浮かんでいた。
『あなたの失恋に最適化』
『あなた専用の幸福』
『あなただけの人生』
街じゅうが、他人の感情を食って光っている。
拓真は濡れた紙袋を抱え、タクシー乗り場へ向かった。
今日だけは、どうしても神崎に会わなければならなかった。
*
高層ビル最上階。
バーラウンジは香水と酒の匂いで満ちていた。
窓の外には、雨に霞む東京。
神崎はソファに深く座り、グラスを傾けていた。
「で?」
視線だけ寄越す。
「わざわざ呼び出して、何の用だよ。柊先生」
その呼び方には、露骨な嘲笑が混じっていた。
拓真は紙袋から原稿を取り出す。
机へ置く。
鈍い音がした。
「読んでくれ」
神崎が眉を上げる。
「……紙?」
「十年書いた」
「まだそんなことやってんのか」
神崎は笑った。
ページを適当にめくる。
数秒。
それだけだった。
神崎は原稿を閉じ、退屈そうに酒を飲んだ。
「なあ、柊」
「お前、まだ勘違いしてる」
「今の時代、人間の文章に価値なんかないんだよ」
拓真の喉がわずかに動く。
「これは……俺にしか書けない」
神崎は吹き出した。
「痛ぇなあ」
「“俺にしか書けない”だって」
ラウンジのジャズがやけに遠く聞こえた。
神崎は端末を起動する。
「見せてやるよ」
空中モニターが展開される。
『テーマ:喪失と愛』
『文体:純文学』
『読後感:静かな絶望』
神崎が音声入力する。
「三秒でいい」
生成開始。
一秒。
二秒。
三秒。
文章が完成した。
拓真は読んだ。
心臓が冷える。
そこには、自分の癖があった。
比喩。
呼吸。
沈黙の置き方。
全部、似ている。
神崎はニヤついた。
「わかるか?」
「もう終わってんだよ。人間の作家は」
拓真は拳を握る。
爪が掌に食い込む。
それでも、声が出なかった。
神崎は原稿データを読み取ると、端末へ移した。
「やめろ」
拓真が初めて声を荒げた。
神崎は笑う。
「安心しろよ。供養してやる」
次の瞬間。
画面の中で、十年分のデータがゴミ箱へ投げ込まれた。
削除完了。
短い電子音。
たったそれだけだった。
拓真の中で、何かが静かに壊れる音がした。
雨音だけが、窓の向こうで続いていた。




