森の朝 … 8
森の木々のあいだに漂っていた朝靄が晴れると、秋の朝の空気は、さらに輝きを増した。空は磨かれたように青く、どこまでも高い。西の空には、この季節によく見られるうろこ雲の姿もある。
ローレリアン王子と護衛隊長を先頭にした騎馬の列は、ゆったりとした速度で森の小道を進んでいた。
複数の馬の足音が、あたりに響く。
森は静かだ。人間の気配に怯えて、獣たちは息をひそめているのだろう。
ヴィダリア侯爵家の狩猟小屋を後にしてから、王子はひとこともしゃべらない。
身支度を終えて寝所からお出ましになったときには、白皙の美貌と讃えられる秀麗な顔を無表情に凍らせて、必要な命令を次々と口にしたが。
とくに、王子の大親友を自称するラカン公爵に対する態度は圧巻だった。
傲慢と思えるほどの強い態度で、王子は臣下の礼を取る公爵を見下ろしたのだ。
「ラカン公爵パトリック・アンブランテ」
「ははっ、王子殿下」
「わたしはこの件を、借りとは思っていない。むしろ、怨みに思っているゆえ、覚えておくがいい」
不敵に笑ったラカン公爵は答えた。
「これはまいりましたな。して、殿下のお怒りを解いていただくために、それがしは何をすればよろしいのでございましょうか」
「いますぐ王都へ取って返し、身なりを整え、ヴィダリア侯爵邸にむけて使者に立て。当主エルウィン殿に直接面会し、ローザニア王国の王子ローレリアンが令嬢モナシェイラ殿を正妃に望んでいるとの宣下をなせ」
「先方の意向のおうかがいではなく、いきなり宣下でございますか」
「そうだ。我が岳父殿に選択権はすでにない。花は王子によって摘まれてしまったあとだと、伝えるがいい」
「国王陛下へのご報告を、先にしなくともよろしいのでございますか」
「余計な心配は無用だ。わたしは世継ぎの王子ではない立場のおかげで、いつも思い切った行動を起こしてこられた。これからも、くだらないしがらみに束縛されるつもりはないのでな。他国の王女との婚姻など、断固として拒否する。ことあるごとに妻の母国との関係へ気配りなど求められては、面倒このうえないではないか。国王陛下には、わたし自身の口から、そう申し上げる」
恐れを知らない五公家筆頭公爵は、肩を震わせて笑った。
「こたびも結果的には、思い切った行動をなさったことになりましたな。老人どもから意に染まぬ妃をおしつけられる前に、王子殿下がさっさと御自分の望みどおりに、ことを進めてしまわれたといったところでしょうか。
まあ、さほど気をもまれる必要もないでしょう。
宰相殿も、王家に建国当時からつかえる古い家柄の名門ヴィダリア侯爵家を、ないがしろにすることはできません。殿下に強い御意志さえあれば、つまれた花は、お望みどおり殿下のお手元におさまることでございましょう」
「御託をならべる暇があるならば、さっさと行動するがいい」
「王子殿下の御意志、しかとエルウィン殿にお伝え申し上げます」
いやみなほどに深々とお辞儀をし、ラカン公爵は王子の御前から辞した。
部屋から出ていく公爵の後ろ姿を見ながら、アレンはため息をついたのだ。
ラカン公爵が急ぐ必要など、じつは欠片もなかった。王子がヴィダリア侯爵家の狩猟小屋へ宿泊したことは、昨夜のうちに関係者のあいだへ報せてある。きっと今頃、令嬢を王子の閨にさしだしたことになるヴィダリア侯爵は、自邸で静かに続報を待っていることだろう。政界の重鎮に名を連ねる侯爵は、王国の次の権力者と血縁関係になることを、手放しで喜ぶような愚かな男ではない。
それに、ローレリアンは、あくまでも世間に対して、ヴィダリア侯爵令嬢を妃に望んで国王や宰相へのあてつけに実力行使におよんだのは自分であると、喧伝するつもりのようだ。すみれの瞳の姫君モナシェイラ嬢は、王子の熱意で強引に手折られた美しい花である。真実は永遠に、忘却の彼方へ葬られる。
それでいいのだと、アレンは思った。
嬉しくもあった。
ローレリアンが、おのれを悪者に仕立てあげてでも、モナの名誉を守ろうとしてくれることが。
しかし、アレンにはひとつだけ、心に引っかかっていることがある。
自分のとなりでゆったりと馬を進める王子殿下の横顔を、アレンは盗み見た。
そして、背後の気配も、そっとうかがう。
部下たちは機嫌の悪い王子殿下に遠慮して、少し距離を置いてついてきている様子だ。この距離なら馬の足音にかき消されて、会話の内容までは聞かれないだろう。
そう判断して、砕けた口調でアレンはローレリアンへ話しかけた。
「なあ、リアン。ひとつ、聞いてもいいか」
「なんだ」と、ローレリアンは前を見たまま答える。
「その……、俺は一晩中、寝室の扉の前にいたわけで……」
「ふん。立ち聞きしていたのか」
「情けない濡れ衣を着せるなよ! 俺はこの国の王子の護衛隊長だぞ! 王子を守るのが俺の仕事だ!」
「だが、聞いていたんだろう?」
「う……、夜が明けたころ……、ちょっとだけ」
アレンが扉越しに聞いたのは、懸命になって嬌声をこらえている様子の、艶めかしい女のうめきだ。なまじ押し殺された気配だったから、想像をかきたてられてしまうのだ。モナに騙されてやけくそになったローレリアンは、結局、花を手折ってしまったのだろうかと。アレンもしょせんは、若い男なのである。
親友の赤くなった耳を見て、ローレリアンは意地悪な気分になった。
純情な友人を、からかってやりたくなったのだ。
「おまえがどうかは知らないが、若い男の自制心など、信用できるものじゃない」
「そ、そうなのか?」
「本気で惚れてる女に捨て身で迫られてみろ。耐えられる男など、いるものか。
細い体が折れそうになるほど抱きしめて、自分の下に組み敷いて、めちゃくちゃにしてやりたくなる。
むしろ、最後の一線だけは越えなかった、わたしを褒めてもらいたいものだね」
「じゃあ、それに近いところまでは、いったってことなのかよ!? おまえときたら、寝室から出てきたとき、彼女は疲れて眠っているからそっとしておくようになんて、ほざきやがるしっ!!」
「さあな。ご想像にお任せする」
「あああああっ! 聞くんじゃなかった!」
煩悶している親友を横目で見て、ローレリアンは愉快そうに笑った。
本当のことなど、誰が教えてやるものか。
口元に微笑を残したまま再び前方へ目をやり、ローレリアンは早朝の出来事に思いをはせた。
** **
モナに口づけたあと、ローレリアンの理性は完全に一度、どこかへ吹き飛んだのだ。
衝動のままに手をのばし、薄い夜着のうえから彼女の体の感触を確かめ、うなじや鎖骨のくぼみに口づけを浴びせた。
彼女は逆らわなかった。
それどころかローレリアンの背中に腕をまわし、慣れない手つきで、けなげにしがみついてくる。
彼女の口から甘い吐息が漏れ聞こえるたび、自分の背中にまわされた腕に力がこもって、切なげに身がよじられる。
その反応が嬉しくて、ローレリアンは夢中になって彼女の体をまさぐった。
そして、いよいよ彼女をベッドに押し倒したとき、彼女が「痛い!」と悲鳴をあげたのだ。いったい何をしでかしてしまったのだと思いながら、ローレリアンはあわてて彼女から手を離した。
するとモナは「ごめんなさい」と言いながら、枕の下へ手を入れた。
枕の下から現れたのは、細身の剣だった。柄にほどこされた鷹の紋の意匠には見覚えがある。モナがいつも護身用に持ち歩いている剣だ。何代も前のヴィダリア侯爵が国王から下賜されたもので、由緒のある名剣なのだと、以前彼女から聞かされた。
彼女の着衣はローレリアンの手によって、しどけなく乱れている。ガウンは両肩から脱げ落ちて肘のあたりに引っかかっているだけだし、夜着の深い襟ぐりからのぞく胸のふくらみの上部には、薄紅色のキスの跡が無数に散っていた。
そんな姿のモナが、剣を抱いているのだ。潤んだ瞳で、こちらを見あげながら。
ぞくぞくとした感触が背筋に走り、ローレリアンの身体は熱くなった。
艶めいた女らしいしぐさと由緒ある名剣は、ひどくアンバランスだ。
けれど、その二つがそろってこそ、彼女はもっとも、彼女らしく見える。
彼女のすべてを知っている男は、自分だけなのだ。
それが嬉しくて、ローレリアンは問いかけた。
「きみはいつも、寝床に剣を持ちこむのか?」
「まさか」と、彼女は笑った。
「昨夜は、あなたを守らなくちゃならないと思ったから。
モンタン先生の薬は効きすぎるの。飲んで最初の数時間は、ゆすろうが何をしようが目覚めないほどなのよ。
生き物にとって、目が覚めないというのは危機的な状況よ? 外敵から身を守れないでしょ?
だから、なにかあったら、わたしがあなたを守らなくちゃいけないと思ったの」
「モナ、ひょっとしてきみは、夜通し眠っていないのか」
「あなたのそばで寝顔を見ていたら、時間なんて、あっというまに過ぎてしまったわよ。眠っているときだけは、わたしがあなたを独占できると思ったら、嬉しくてたまらなかったわ。王子でいるときのあなたは、国の民のものですもの」
深いため息をついて、ローレリアンはベッドに倒れこんだ。
彼女のすべてを知っていると思ったのは、単なる男の傲慢だったのか。
どうやら自分は一晩中、彼女に守られていたらしい。
モナは、これからどうするべきなのかで、こまっている。
となりへおいでと手招きしたら、剣をサイドテーブルに置いて、膝でにじりよってきた。
恥ずかしそうに、「つづきをするの?」と。
そうしたいのはやまやまだが、もう一度その気になったりしたら、今度こそ歯止めはきかないだろう。大切な彼女に、未婚のまま子を孕ませたりしたら大変だ。ここはとりあえず、自分を正気にもどしてくださった神々に、感謝しておくことにしようと思う。
モナを懐に抱きこんで、寝具で暖かく、くるんでやった。
「きみは少し、眠らなくちゃいけない」
「眠くなんかないわ」
「すぐに眠くなるよ」
そんな会話をかわしながらモナの黒髪をなでていたら、彼女はすぐに、まどろみへ落ちていった。
モナを腕に抱いたまま一時間ほどうとうとしたら、ローレリアンの身体に残っていた薬による不快感もおさまった。
そっとベッドから抜け出して、身支度を整えながらローレリアンは思った。
きっと身体的な能力からいったら、書類相手の仕事ばかりしているわたしより、モナのほうが数倍優れているだろう。いつかそのうち剣を抜く必要がある場面で、彼女に守られるような状況に遭遇することもあるかもしれない。わたしは、この国の王子なのだから。
ならばわたしは、彼女が剣を抜かずに済むように、王子としての力で彼女を守ろう。
宮廷内の権力をおのれの手のなかへ完全に掌握し、反対勢力の不穏な動きなど、すべて事前にたたきつぶしてやればよい。
強い為政者に、なってみせる。
それも、できるだけ長く。
いままで、わたしは、死ぬことなど怖くないと思っていた。
どこか投げやりな気持ちで、自分の命の価値を軽く見ていたように思う。
でも、いまは、簡単には死ねないと思っている。
わたしは、もっともっと強くなって、最愛の妻と、この国の民を、守らなければならないのだから。
そして、いつか許される時がおとずれたら……。
** **
馬の歩みに身をまかせ、ゆったりと構えていたローレリアン王子は、過去へさまよいでていた意識を現実へひきもどした。
頭上で枝葉を重ね、道の上にトンネルをなす木々の姿を見ていると、おさえられないため息が出てくる。
このトンネルを抜けると、森の入り口にある村へたどり着いてしまうのだ。人目のある場所に出れば、王子は公人へもどらなければならない。まだ気持ちの整理など、まったくできていないのに、完璧な王子殿下の顔など作れるだろうかと思ったのだ。
率直に、ローレリアンは、かたわらの護衛隊長へ話しかけた。
「なんだか、まっすぐ王宮には帰りたくない気分なんだが」
アレンは杓子定規な人間ではないから、「じゃあ、寄り道していくか?」と、即答する。昨夜の出来事は、ローレリアンにとって、大きな人生の転機になっただろう。王子の心中にかなりの波風が立っていることくらいは、アレンにも容易に想像できるのだ。
「おい、前に見えてる分かれ道は、どこへ通じている?」
後方にむかってアレンが大声でたずねると、森の地理に詳しい案内人が答えた。
「フォルテフィエ修道院へ通じております」
「馬で進むのに、問題はないか」
「大丈夫です。道は整備されておりますし、途中の丘の上からは、王国の南へ下る街道の様子や王都全体の遠景をご覧になれます」
「だそうだ」と言いながら、アレンがとなりを見やると。
「あっ、リアン! まてったら!」
王子はいきなり馬に全速力を命じ、前方へと飛び出していく。アレンは慌てて、そのあとを追った。
** **
さわやかな朝の空気を切り裂くようにして馬で疾走するのは最高の気分転換だった。
風になぶられ、森の木々の枝が音を立てている。
道はなだらかな登りで、障害物も特にない快適な作りだった。あとひと月季節が遅ければ、落ち葉の吹き溜まりがあちこちにできて道のくぼみをかくしてしまい、馬を飛ばすには危険な道となるのだろうが。
10分もたつと、木立のあいだに時々、明るい陽光が透けて見えるようになった。道の左手が斜面になっているせいで、木立の影が薄くなってきているのだ。
徐々に馬の速度をゆるめながら、ローレリアンは先を目指す。
やがて視界をふさいでいた木立の並びが途切れた。
プレブナンの南の森で、もっとも高い丘の上に達したのだ。
その場所は、ちょっとした広場になっていた。道を登ってきた人間は皆ここで、王都の全景を見渡せる素晴らしいながめを堪能しながら休憩するのだろう。
アレンは荒い息をしている自分の馬をなだめながら、ローレリアンの背後へ近づいていった。
部下には、広場の入り口で待機しているように命じた。
愛馬に先を急がせるローレリアンの背中を見ていたら、アレンにはなんとなく、わかってしまったのだ。ローレリアンは、こみあげてくる涙をかくしたくて先頭を走っている。つねに立派な王子殿下でいるのは、凡人とは比較にならないくらい優秀なローレリアンにとっても大変なことなのだ。
「リアン」
そっと声をかけたら、震える背中が答えた。
「どうせ、おまえには、ばれているんだろう。わたしが馬を駆りながら、泣いていたってことは」
「まあな。おまえは昔っから、泣き虫だったさ」
「不思議なもんだと、思ったんだ」
「なにが」
「涙というものは、嬉しいときにも出るらしい。こんなのは……、初めてだ」
「そうか」
「自分がこの国の王子だと知らされたとき、わたしはすべてを、あきらめたんだ。人としてのささやかな幸せを得る望みなど、持ってもむなしいだけだろうと思った」
ローレリアンは天を仰ぎ、ふたたび湧きあがる新たな涙を眼のふちからこぼすまいとして、大きく息を吸う。けれども、言葉の震えは、かくしきれない。
「打算のない純粋な愛になど……、そばへ近づくことすらできないと思っていた。でも、モナが……! すべてを投げうってでも、わたしと……、生きるのだと言う……!」
言葉は切れ切れに乱れ、最後は感極まっての絶句となる。
アレンは、ローレリアンの喜びを代弁してやる気分で答えた。
「奇跡が、起きたな」
高ぶる気持ちを静めようと、ローレリアンは何度もうなずいた。
「そうだ。彼女とめぐりあえたのは、まちがいなく奇跡なんだ。
国を背負って生きている王子のわたしが、真の愛をつかみえるとは、誰も思っていなかっただろう。わたし自身ですら、あきらめていたのだから。
でも、わたしは彼女と出会った!
しかも、いまでは将来の夢にまで、思いを馳せている。いつか許されるときがきたら、わたしと彼女のあいだに新しい家族を迎え入れたいんだ」
いつになく饒舌な王子を見て、アレンは嬉しそうに笑った。
「おまえの口から、自分自身の将来の夢なんて、初めて聞いたよ。
案外、普通の夢なんだな。
奥さんに子供か。いいじゃないか」
「ローザニアは問題を山ほど抱えた国で、王子のわたしにも、将来のことなどさっぱりわからないがな。
ただ、思うんだ。
わたしは妻や子供を普通に愛して、この国の大地に根を下ろすような気持ちで、強く、したたかに、生きていく。難しい局面に立たされても動じずに、どう生き抜こうかとまず考えられる、しぶとい人間になろうとね」
そのあとしばらく、ローレリアンはうつむいて黙りこんでいた。
アレンは馬を、親友のとなりへ進める。
「なあ、見てみろよ。ここから一望する王都の姿って、すごいよな」
ふたりは馬上から、澄んだ秋の大気のむこうに見える、広大な都市の姿を見つめた。
林立する煙突からは、朝の炊事をする家庭の煙や、町工場の炉の煙がたなびいている。
街からのびる街道には、夜明けとともに活動をはじめた荷車や馬車が、ひっきりなしに行きかっていた。
あの煙の下に、荷物の動きのひとつひとつに、いまこの時を生きている人の営みがある。地平に消えゆく広大なローザニアの国土の隅々にも、きっと同じ光景があるはずだ。
ここから見えるものも、見えないものも、すべてが彼らの守るべきものだった。
国とは、過去と未来までも内包した、人の営みの集まりだ。
無言のうちに、アレンとローレリアンは誓った。
どんな困難にであおうとも、我々は変わらずに、この国を守っていくのだ。
そして、いつか必ず自分たちの子供に、明るい未来を手渡そうと。
―――― 第二話 「ローザニアの聖王子」 完 ――――
「幻の煌国」第二話「ローザニアの聖王子」は、これにて完結です。
最後まで読んでくださった方には、心からお礼申し上げます。
第三話の連載は、原稿のストックが準備出来次第の開始にしようと思っております。タイトルは「真冬の闘争」を予定しております。