第9話『怪しい影と引き裂かれた朝』
「翠さん……待っていておくれ、すぐお迎えに行くからね……!」
朝方、地獄のセリフ差し替え作業を完徹で終わらせた茂は、目の下に濃いクマを作り、フラフラの足取りで家を飛び出した。向かうは、昨日イグアナの翠さんを預けた爬虫類対応のペットショップだ。
ボロボロの身体で翠さんを受け取り、キャリーバッグに納めて店を出た、その時だった。
(……ん? 嘘だろ……っ!?)
数十メートル先、通りを挟んだ向かいにある『ホテルキャットシティ』のガラス扉が開いた。
そこから出てきたのは――遠征ライブから戻ってきたはずの妻、みどりだった。
そしてそのすぐ隣。同じタイミングで愛猫を引き取って出てきた、スーツ姿の爽やかな男性客がいた。
「わぁ、すごく毛並みがツヤツヤですね! シャンプー何使っていらっしゃるんですか?」
「これですか? 市販のオーガニックなんですけど、フードを穀物フリーに変えてから毛並みが格段に良くなりまして。あと、おしっこの匂いもかなり薄らぐんですよ」
「そうなんですか! フードでそんなに変わるんですね〜!」
猫好き同士、ロビーで意気投合した二人は、ドアを出てからも自然な笑顔で猫談義に花を咲かせていた。みどりは「うちの子もすっごく可愛いんですよ」と言わんばかりに、弾けるような笑顔を男に向けている。
だが――通りを挟んだ路地の電柱の陰で、茂の視界は真っ赤に染まっていた。
(お、男と一緒に……出てきたーーーーーっ!?!?)
茂は電柱の影に身を隠し、心臓を激しく打ち鳴らした。茂の脳内フィルターを通したその光景は、「背徳の館で一夜を明かし、朝の街角で愛を確かめ合う二人」そのものだった。
(あの男か……!? みどりさんに『リード』をつけさせ、僕を置いて高飛びした男は……っ! しかもなんだあの打ち解けぶりは!『毛並み』だの……おしっこ!? おしっこの匂いだとーーーーっ!? どんな恐ろしいアブノーマルプレイに興じていたんだーーーっ!!)
男が爽やかに会釈をして歩き去り、みどりが満足気な笑顔でタクシーに乗り込むのを、茂は血の涙を流しながら見送るしかなかった。
◇
一方、その数分前のフロント。
みどりが愛猫の『蓮くん』を受け取っていた際、女性スタッフから衝撃の事実を聞かされていた。
「あの……昨日、変装された旦那様と思われる方が『妻のリードを取りに来た』とお取り乱しになられていて……」
「えっ……!?」
みどりは背筋を凍らせた。
(茂くんがキャットシティに……!? なんで私がここで蓮くんを預けてるのを知ってるの……!? まさか、内緒で猫を飼ってるのがバレた……!?)
みどりは冷や汗をかきながらも誤魔化して店を出たが、頭の中はパニックだった。
(でも、もし猫がバレてるなら普通問い詰めてくるよね? なんでバケットハットで変装して『リード』だけ取りに来て帰ったの……? 茂くんの行動、意味不明すぎて逆に怖すぎるんだけど……!!)
◇
30分後、烏丸家。
先回りして自室に翠さんを隠した茂は、2階リビングのソファで力尽きていた。
「ただいま〜……! 茂くん、起きてる〜?」
玄関のドアが開く音がし、ガレージへ続く勝手口のあたりで僅かなゴソゴソという気配が聞こえたあと、階段を上がってくる足音が響いた。2階のドアが開ってみどりが帰ってくる。ライブ終わりのハイテンションと、「隠れ猫がバレたかも&茂の奇行への恐怖」が入り混じった複雑な表情だ。
「おかえり……なさい……みどりさん……」
(帰ってきた……。あのスーツの男と笑顔で別れを告げ、何事もなかったかのように僕の元へ……っ!)
「ちょっと茂くん、目のクマ凄くない!? 大丈夫?」
みどりは心配そうに近寄りつつも、茂の様子をビクビクと探る。
(この人、本当にキャットシティに来たの……? 蓮くんのこと、気づいてるの……?)
「あ、ねえねえ! 録画してあるSnow Manの番組、一緒に観ようよ!」
みどりは焦りを隠すように強引にテレビをつけ、茂の隣に腰かけた。
「やっぱりめめは別格だったわ〜。でもね茂くんには絶対、この『佐久間くん』を推してほしいの! すっごいアニメオタクで熱量が凄くて、絶対気が合うから!」
画面の中のピンク髪のアイドル・佐久間大介は、真っ直ぐな笑顔でアニメ愛を熱弁していた。その情熱に茂の心は痛む。
(……確かに、良い子そうだ。でも……みどりさん)
茂の脳裏に、さっき目撃した衝撃の会話がフラッシュバックする。
(君は僕に佐久間くんを薦めてくれているけれど……僕は聞いてしまったんだ。君があの男と『おしっこ』の話をしながらホテルから出てくるところを……っ!)
「ねえ茂くん、聞いてる? 佐久間くんのダンス、凄くない!?」
「あ……うん、すごいね……キレがあるね……」
「でしょー!? 茂くんも沼っちゃいなよ〜!」
みどりは茂の腕を抱え込みながら、心の中で焦っていた。
(……茂くん、なんか私を避けるような目をしてる。やっぱり猫を飼ってるのがバレて怒ってる……? それとも変装してリードを取りに行くような怪しい趣味に目覚めたの……!?)
(ああ……みどりさんの手が温かい……。でもこの手で、さっきの男のリードを引き……おしっこを……っ!!涙)
「……茂くん? なんで泣いてるの?」
「ええ……感動です……色々と、溢れ出てしまいまして……っ」
「ふふ、ならよかった。あ、私ちょっとお手洗い行ってくるね!」
茂がソファでぐったりと目を閉じ、佐久間くんの歌声に耳を傾けている隙を見計らい、みどりは忍び足で1階へと階段を駆け下りた。
(ふぅ〜……あっぶな!! 茂くんのあの様子なら、まだ蓮くんの存在には気づかれてなさそう……!)
みどりは玄関脇にこっそり置いておいた猫用キャリーバッグを両手で抱え直すと、音を立てないよう息を殺して1階奥のガレージへと移動した。
ガレージの奥、物陰に隠された大きなキャットケージの扉をそーっと開ける。
「蓮くん、ただいま……! ごめんね、ホテルお疲れ様。静かにね……」
キャリーから出された猫の蓮くんが「ニャ……」と甘えた声を出しそうになった瞬間、みどりは「シッ……!」と人差し指を口元に当てて制した。そして蓮くんを隠し部屋へ戻すと、素早く鍵をかけた。
(よし……これで完璧! 茂くんが怪しい行動をしてる理由は謎だけど、とにかく蓮くんの存在だけは死守しなきゃ……!)
みどりは冷や汗を拭い、何事もなかったかのような顔で再び2階リビングへの階段を上っていくのだった。
引きつった笑顔で見つめ合うふたり。
「隠れ猫がバレたかもしれない恐怖」に怯え、ガレージへコソコソ走るみどりと、「妻の過激なアブノーマル不倫」に絶望し、ソファで涙を流す茂。
お互いの前提が完全にズレたまま、二人の噛み合わない狂想曲は加速していくのだった。




