第8話『社畜と大捜査線』
「よし……翠さん、自由の時間だよ!」
2階の共有リビングで、茂は満面の笑みを浮かべながらケージの扉を開けた。のっそりと姿を現したのは、茂が妻に内緒で飼っている愛しのイグアナ――『翠さん』である。
「今日はみどりさんもいないし、家中どこでもお散歩していいからね!」
フローリングの上を悠々と歩く翠さんの姿を愛おしそうに見つめ、茂は久々の解放感に浸る……はずだった。
しかし、茂の心はまったく晴れていなかった。リビングのカウンターに置かれたタブレットの画面が、どうしても視界に入ってしまうのだ。
そこに残された、『【ホテルキャットシティ】よりご連絡です。受付にリードのお忘れ物がございました』という地獄の通知メッセージ。
「うぅ……翠さん……聞いておくれよ……っ!」
茂は膝をつき、フローリングを這うイグアナの翠さんに涙目ですがりついた。
「君はこんなに素直で僕のそばにいてくれるのに、本物の『みどりさん』は今ごろ……っ! 結婚記念日の当日に僕を置いて、一体どんな男と……『リード』なんて使ってどんな恐ろしいプレイに手を染めているんだーーーっ!涙」
茂が必死の形相で情けない訴えをぶつけると、イグアナの翠さんは「……(パチクリ)」と無表情でまばたきをし、ウザそうに太いシッポをパチンと茂の鼻頭へ叩きつけた。
「ふぐっ……!? す、すいません……僕が情けないばかりに、翠さんにまで叱られてる気がする……」
鼻を押さえて崩れ落ちる茂。だが、妄想の渦は留まることを知らない。
茂は震える手でスマホを取り出し、『ホテルキャットシティ』の店名を検索窓に打ち込んだ。
「キ……キャットシティ……!? 猫……女豹……アニマル系の過激なコンセプトホテルだというのか……っ!? しかも我が家から車で15分の場所……近場すぎないかみどりさん!? 燈台下暗しとはこのことかーっ!!」
頭から湯気を吹き出しながら大パニックに陥る茂。
「ダメだ……じっとしていられない! 僕には確かめなきゃいけない『愛』があるんだ……っ!」
変装の準備にかかる茂だったが、ふと足元で首を傾げる翠さんと目が合った。自分が家を空ければ、この子のエサや温度管理はどうなる? 狂乱状態とはいえ、茂の生き物に対する深い愛情だけはブレなかった。
「……翠さん、君を一人にはしない! 僕と一緒に来ておくれ!」
茂は翠さんを専用キャリーに押し込むと、花屋のエプロン姿に黒サングラス、バケットハットという怪しさ2000%の装いでママチャリに跨がり、爆走を開始した。
◇
15分後。
茂が辿り着いたのは、住宅街の路地裏にひっそりと佇む『ホテルキャットシティ』であった。
看板には可愛らしい猫のシルエットが描かれているが、茂の目には「妖しく誘う女豹のロゴ」にしか見えていない。
「ここが……背徳の館……っ!」
茂は息を呑み、意を決してガラス扉を押し開けた。
「いらっしゃいませ」
受付の女性スタッフに、茂はサングラスの奥から鋭い光を放ち、カウンターをドンと叩いた。
「烏丸です! 妻の……みどりの『リード』の忘れ物を取りに来ました!!」
「え……? ああ、烏丸様ですね」
スタッフは台帳を確認したが、茂の殺気立った異様な身なりと「妻のリード」という謎の切迫感に毒気を抜かれ、すぐに営業用の引き締まった顔に戻った。
「大変申し訳ございません。当ホテルでは個人情報保護の観点から、ご本人様以外への詳細のお答えやお預かり物のお渡しは一切できかねます」
「な、なぜですか!? 僕たちは正真正銘の夫婦ですよ! 妻がそこでどんな状態なのかだけでも教えてください! 傷つけられてはいませんか!? つながれているんですか!?」
「お客様、落ち着いてください! そのようなお答えはいたしかねます!」
当然、ペットホテルとして顧客のプライバシーを守る至極真っ当な対応である。だが、妄想の泥沼にハマった茂の脳内では「隠蔽しなければならないほど過激なリードプレイが行われている」と最悪の変換がなされてしまった。
「くっ……! わかりました……!」
ホテルの外へ連れ出された茂は、白目を剥きながら佇んでいた。
「みどりさん……僕に何も言わず……『リード』を残したままどこへ行ってしまったんだ……?」
その時、茂の脳裏に昨晩のみどりの会話が蘇った。
『明日は大好きなSnow Manの遠征ライブなんだから!』
「そうか……! あの男とホテルで楽しんだあと……そのまま『遠征ライブ』を口実に高飛びしたんだ……!! 待っていてくださいみどりさん! 僕が必ず奪い返してみせる……っ!」
覚悟を決めた茂は、まず近所の爬虫類対応ペットショップへ飛び込んだ。
「すみません! 至急この『翠さん』を預かってください! 温度設定は28度、大好物は小松菜です! 寂しがり屋なので優しくしてあげてくださいっ!」
涙目で翠さんの取扱説明を早口で捲し立て、受付スタッフをドン引きさせつつも預け入れを完了させた茂。
「翠さん、行ってくるよ……もう一人の『みどりさん』を救うために……っ!」
そのままママチャリで駅へ爆走し、東京駅のみどりの窓口券売機へ飛び込んだ茂。財布からクレジットカードを引っ張り出し、鼻息荒く画面を操作する。
「新幹線のチケットを……名古屋行き……いや大阪行きか!? 待っていてくれ、みどりさ――」
【♪〜〜〜〜!!】
突如、ポケットの中でスマホがけたたましく鳴り響いた。画面に表示されたのは――『番組プロデューサー』の文字。
嫌な予感しかしない。震える手で通話ボタンを押す茂。
『あ、烏丸先生!? 今どこですか!? 例のドラマの脚本、監督から「今夜中に全ページのセリフ差し替え」って無茶振りが入りまして! 明日の朝イチの撮影に間に合わないんです! すぐパソコン開けますか!? 今すぐ事務所かご自宅に戻ってください!!』
「え……あ……は、はい……今すぐ戻ります……」
ポロリと手から落ちるクレジットカード。
みどりは遠征先へ飛び立ち、イグアナの翠さんはペットホテルへ預けられ、自分だけが締切の地獄へ連れ戻される。
「みどりさぁぁぁぁぁん……っ!! 涙」
東京駅の雑踏の中、悲しき社畜・烏丸茂の叫びが虚しく響き渡るのだった。




