第10話『核心と自白』
第10話『核心の問いと、最悪の自白』
10分経過しても、1階ガレージの暗闇に猫の蓮くんを潜ませて戻ってきたみどりと、2階リビングのソファで絶望の淵に沈む茂の空気は、重く冷え切ったままだった。
テレビ画面では、Snow Manの佐久間くんが弾けるような笑顔でアニメの魅力を語っている。だが、今の茂の耳には何も入ってこない。脳内を支配しているのは「リード」と「おしっこ」の凶悪な二大パワーワード、そして今朝目撃したあのスーツの男の爽やかな会釈だった。
(ダメだ……このままでは、僕の心が保たない……!)
茂は膝の上で固く拳を握り締めた。
脚本家として数々のドラマを妄想してきた茂だったが、我が身に降りかかったこの昼ドラ以上のドロドロな現実には耐えきれそうにない。持ち前の煮え切らない性格が「このまま問い詰めずに波風を立てないでおこう」と囁く一方で、妻への愛と疑惑の苦しみが「本当のことを聞け!」と叫んでいた。
(聞くんだ、茂……! 夫として、男として、核心を……っ!)
茂はゴクリと乾いた唾を飲み込んだ。隣で寛ぐみどりをチラリと盗み見る。みどりはみどりで、内心冷や汗びっしょりだった。
(茂くん、さっきから凄く様子がおかしい……。やっぱり『キャットシティ』で私が蓮くんを預けてるのを知ったんだ……。絶対に隠れ猫のことがバレてる……!)
みどりは茂の追及を警戒し、体を硬くしていた。
「あの……みどりさん……」
ついに茂が絞り出すような声で口を開いた。
「ん、なに!? 茂くん!」
ビクッと肩を跳ね上がらせ、みどりは過剰に爽やかな笑顔を張り付けた。
「もし……もし差し支えなければ、参考までに伺いたいのですが……」
「さ、参考までに? なになに? なんでも聞いてよ!」
(探りを入れてきた……! どう来る……!?)
茂は喉を鳴らし、目の前の妻を見つめた。煮え切らない性格が災いし、「浮気してるんですか!?」という肝心な言葉が喉元で引っかかって出てこない。結果、脳内で熟成された最悪のワードだけが、歪んだ形で口から飛び出した。
「その……(プレイで)リードを……つけたり……」
「え……?」
みどりの動きが止まった。
(り、リード……!? やっぱりキャットシティのスタッフから聞いたんだ! 一昨日の受付に私が忘れちゃった、あの猫用のリードのこと……!!)
動揺を隠せないみどりに、茂はトドメとばかりに尋ねた。
「あ、あの……おしっこ……かけたり、するんですか……っ!?」
「は……っ!?」
みどりは目を見開いた。
(おしっこ!? なんでそれを!? ああ、そっか……キャットシティに預ける時、蓮くんが興奮して受付のシートでおしっこ漏らしちゃったのを見られたのか……!? それともスタッフさんに『粗相する癖があります』って伝えたのが漏れた……!?)
みどりの中で、完全に「隠し猫・蓮くんの粗相とリード」の話としてパズルのピースが繋がってしまった。
(やばい……っ!『おしっこのしつけができてない猫』だと思われると、絶対に家で飼うのを反対される……!!)
みどりは万が一猫の存在が完全にバレた時のため、罪を少しでも軽くしようと、必死の弁明を始めた。
「ち、違うよ茂くん! おしっこかけるのは、いつもじゃないよ! 本当たまにだよ!?」
「ほ……本当たまに……!?」
茂の思考がピタッと止まった。
(たまになら良いという問題なのか……!? たまに男におしっこをかけるプレイをしているというのか……っ!?)
必死なみどりは、茂の引いている表情に焦り、さらに墓穴を掘るように語気を強めた。
「あ、あと……ほんと〜にたまーに興奮しすぎると漏らしちゃう事もあるけど……! でも基本はちゃんと指定の場所でするし! リードだって外に行く時しかつけないよ!? おうちの中では自由にしてるし!」
(興奮しすぎると漏らしちゃう……!? 外ではリードをつけて……家の中ではノーリードで自由におしっこを……っ!!)
茂の全身に鳥肌が立ち、胃がキリキリと捻り切れるような激痛に襲われた。
「まあ、たまに自分の縄張りを主張するマーキングで、勢い余っていろんなところにかかっちゃう事はあるけど……悪気があるわけじゃないからさ〜! 大目に見てもらえると助かるというか……あはは」
みどりは「だから猫を家に迎えるのを許して」というニュアンスを込めて、てへっと可愛らしく首を傾げた。
だが、茂の視界は完全に真っ暗になっていた。
(マーキング……自分の所有物だと主張するために……あの男に……排泄物を……? それを……『大目に見てもらえると助かる』……だと……っ!?)
「茂くん? 大丈夫? なんか顔色が土色になってるけど……」
「みどり……さん……」
茂は震える手で自分の胸元を固く掴んだ。
「……いつからそんな……モンスターになってしまったんだ……っ」
「はぁ!? モンスター!? 失礼ね! たまにおしっこ引っかけるくらいでモンスター扱いしないでよ! 誰だってテンション上がったら漏らしちゃうことくらいあるでしょ!?」
「誰も男におしっこをかけたり漏らしたりしませんーーーっ!!」
「は!? 男に?おしっこ!? なに言ってんの茂くん!?」
ついに絶叫した茂は、白目を剥いてそのままソファの上へ倒れ込んだ。
「ちょっと茂くん!? 茂くーーーん!?」
みどりが慌てて倒れた夫の肩を揺さぶる。
「しっかりして! なんで猫の話でそんなにショック受けてるのよ!?」
「ね……猫……?」
薄れゆく意識の中で、茂はかすかに目を開けた。
「いま……猫って……言いましたか……?」
「え? あ……」
みどりはハッと息を呑み、慌てて自分の口を両手で塞いだ。
(しまったーーーーーっ!! 自分から『猫』って言っちゃったーーーーーっ!?)
リビングに、耐えがたい沈黙が訪れた。
お互いに目を見開いたまま固まるふたり。
すれ違い続けた最悪の誤解が、思わぬ形で「猫」という真実の端っこに触れた瞬間だった。




