第11話『解かれた誤解と新たなる動揺』
「ね……猫……?」
白目を剥き、倒れかけた姿勢のまま呟いた茂の呟きに、みどりの全身から嫌な汗が噴き出した。
(やばいやばいやばい……! 茂くんの目が完全にイッてる……っ! このままだとショックで本当に精神が崩壊しちゃう……!!)
みどりは「隠し猫がバレたら怒られる」という己の保身など吹き飛ぶほどの危機感を覚えた。夫のこの世の終わりのような表情を見る限り、茂の頭の中で「リード」や「おしっこ」というワードが、何らかの超ド級に恐ろしい変態的犯罪行為に変換されているのは間違いなかった。
「違うの茂くん!! 落ち着いて話を聴いて!! 変な意味じゃなくて、本当に『本物の猫』の話なのーーーーーっ!!」
みどりは茂の両肩をガシガシと激しく揺さぶった。
「ほ……本物の……ネコ……? 概念や……プレイの隠語ではなく……あの四つ足でニャーと鳴く……?」
「そうだよ!! 毛が生えてて尻尾があってニャーって鳴いて、ビー玉みたいな目でスリスリしてきて、嗅ぐと太陽の匂いがする正真正銘の『猫』!!」
茂の瞳に、かすかに正気が戻り始める。
「じゃあ……みどりさん……説明してください……。なぜ『キャットシティ』から出てきたんですか……? なぜ男と……おしっこの話を……っ!?」
「あ〜〜もうっ、全部話すから泣かないで!!」
みどりは大きく深呼吸をすると、肚をくくって白状し始めた。
「実はね……友達から『急な海外出張で、数日間だけ猫を預かってほしい』って頼まれたの!」
「友達の……猫……?」
「そう! でもね、茂くん昔『猫は睨んで来るから怖い』って言ってたでしょ!? だから家に連れてくるわけにはいかないと思って……私が代わりに『キャットシティ』に預けてあげる手続きをしてたの!」
茂の脳内で、バラバラだったパズルのピースがガタガタと音を立てて組み替わっていく。
(猫嫌いの僕に配慮して……家に連れて来ずに、ペットホテルに預けていた……!?)
「で、でも……あの『リード』や『おしっこ』の話は……っ!?」
「その猫ちゃんがね、興奮するとたまにおしっこ漏らしちゃう癖がある子なの! それに脱走防止でハーネス型のリードをつけるタイプの子で……! 今朝、引き取りに行った時にロビーで同じように猫を預けてた別のお客さんと『うちの子、粗相しちゃって〜』『フード変えたら匂いがマシになりましたよ〜』って、ただの『猫あるある話』をしてただけなのよ!!」
みどりは「どうだ!」と言わんばかりに胸を張った。もちろん、本当は「友達の猫」ではなく「自分のガレージで内緒で飼い始めた蓮くん」なのだが、茂のパニックを沈めるための起死回生の大ウソ(半分真実)だった。
リビングに、しんと静まり返る時間が流れる。
茂の脳内フィルターが、音を立てて解除されていった。
「背徳の館からの朝帰り」
は朝のペットホテルの引き取り
「男を首輪とリードに繋いだ妻」
は脱走防止の猫用ハーネス
「アブノーマルな排泄プレイ」
は友達の猫の粗相とマーキングの悩み相談
「謎の爽やかスーツ男」
は通りすがりの親切な猫好き客
「あ……あ……」
茂の口から、掠れた声が漏れ出た。
(妻のアブノーマル不倫じゃ……なかった……。みどりさんは……僕に気を使って……友達の猫をホテルに預けていただけだったんだ……っ!!)
次の瞬間、茂の目から滝のような涙が溢れ出した。
「うわあああぁぁぁぁぁっ!! よかった……っ! よかったよぉぉぉみどりさん……っ!!」
「ちょ、茂くん!? なんで号泣してんの!?」
茂はソファの上でボロボロと大粒の涙をこぼしながら、胸を撫で下ろした。妻が過激な不倫に走っていなかったという安堵感、自分の愚かな妄想に対する情けなさ、そして自分を想ってくれていた(と思い込んでいる)妻への愛しさが混ざり合い、感情がキャパシティを超えて暴走していた。
「僕……僕……君が……僕を捨てて……あの男と……ううっ……!」
「え……? 茂くん、もしかして……私が不倫してると思ってたの……?」
「ひっ!?」
みどりのジト目での問いかけに、茂はヒッと息を呑んだ。
(や、やばい……っ! さすがに『君が男に首輪をつけておしっこをかける変態不倫に走ったと思っていました』なんて言えるわけがない……っ!!)
「違っ……違うんです! ただちょっと……みどりさんが急に冷たくなった気がして……僕の愛が足りないのかなって……嫉妬しちゃって……っ!」
茂は必死の形相でウソを重ねた。
みどりは呆れ半分、安堵半分で溜息をついた。
(まったく……相変わらず妄想癖が凄すぎるんだから。でもまあ……なんとか『隠し猫』の存在はごまかせた……かな?)
みどりは心の中でガッツポーズを決めた。「友達の猫を一時的に預かっていただけ」という設定にしておけば、ガレージにいる蓮くんの存在も「今日でお友達に返したよ!」と言って誤魔化せる(実際はガレージに隠し続けるのだが)。
「もう〜! 心配性なんだから! 私は茂くん一筋に決まってるでしょ!」
「みどりさん……っ!!」
感極まった茂はみどりを抱きしめようと腕を伸ばした――その時だった。
(……待てよ?)
茂の脳裏に、冷や水のような悪寒が走った。
(みどりさんの不倫疑惑は……完全に僕の勘違いだった。それはいい……本当に良かった……。だが……)
茂の視線が、ゆっくりと自分の部屋――3階の奥にある自室のドアへと向く。
(僕の部屋には今……本物のイグアナ(翠さん)が隠れている……っ!!)
自分が妻の不倫を勝手に疑って大騒ぎしていた裏で、自分自身もまた「妻に内緒で巨大な爬虫類を自宅で飼っている」という決定的な秘密を抱えているのだ。もしこれがバレたら、今度こそみどりさんに怒絶される……!
「……茂くん? どうしたの、急に固まって?」
「あ、いや……なんでも……なんでもないです……あはは……」
引きつった笑顔を浮かべながら、茂の額から再びダラダラと冷や汗が吹き出し始めた。
不倫の恐怖から解放されたのも束の間。
今度は「己の隠しペット(イグアナ)」を死守するための、新たな極限の心理戦が幕を開けようとしていた。




