第12話『怪獣図鑑と麦わら帽子』
みどりの不倫疑惑という名の巨大な勘違いは無事に(?)晴れた。だが、茂の胸のつかえが完全に取れたわけではない。
なぜなら、3階の自室には体長1メートル弱の緑色の秘密――イグアナの「翠さん」が鎮座しているからだ。もしこの存在がみどりにバレたら、今度こそ離婚届を突きつけられかねない。
(なんとかして……みどりさんの『爬虫類アレルギー』を克服してもらえないだろうか……!)
2階リビングのソファで、茂はひとつの浅知恵を思いついた。先日、みどりが嬉々としてSnow Manの魅力を語ってくれた時のように、「自分の好きなものを共有する」という体で、徐々に爬虫類の造形に慣れさせようという作戦だ。
「あの、みどりさん。いつもみどりさんの好きなものを教えてもらっているので、今日は僕の好きなものも見てもらいたくて……」
茂がうやうやしく書斎から持ち出してきたのは、分厚い『ウルトラ怪獣大百科』だった。
「怪獣図鑑? ふふ、茂くん大学の時からそれ好きよね〜。また懐かしいの引っぱり出してきたじゃない」
みどりはクスクスと笑いながらも、夫が健気に歩み寄ろうとしてくれたのが嬉しかったのか、楽しそうに図鑑を膝の上に広げた。
(よし……! この中にゴモラやツインテールみたいな、どこか愛嬌のある爬虫類系怪獣がいるはず……! それを『可愛い』と言ってくれれば、イグアナへの道が開ける……!)
茂はゴクリと唾を飲み込み、期待に胸を膨らませた。
「とりあえず……直感でいいので、可愛いなって思う子とかいますか……?」
「うーん……どれもゴツゴツしてて、あんまり変わらない気が……」
ペラペラと手つき良くページをめくっていくみどり。茂は隣で正座し、祈るような心地でその手元を見つめる。
すると、あるページでみどりの手がピタリと止まった。
「あ、この子はちょっと可愛いかも!」
「えっ!? 本当ですか!?」
茂は弾かれたように身を乗り出し、みどりの指差すページを覗き込んだ。
そこにドーンと鎮座していたのは、腹部に巨大な五角形の口を持つ、宇宙怪獣ベムスターだった。
「ほら見て茂くん。目がくりっとしてて、頭にツノはあるけど……なんだかフクロウとかペンギンみたいで可愛いかも!」
楽しそうに図鑑を指差す妻の横で、茂のテンションは一気に氷点下まで垂直落下した。
「……ベムスター、です……」
「え?」
「ベムスターです……。帰ってきたウルトラマンに登場する怪獣で……お腹のへそみたいな口からガスタンクを丸ごと飲み込んで……中の気体を吸うんです……」
お通夜のような低い声で淡々と解説する茂に、みどりはポカンとした。
「へ、へえ〜……お腹でお食事するんだ。でも顔は鳥さんっぽくて愛嬌ない?」
「……鳥類……ですね……」
茂は深く、深くため息をついた。
(終わった……。みどりさんが惹かれたのは『鳥類』の要素だ……。フクロウやペンギンみたいな可愛さを求めている人に……トカゲやイグアナの良さが響くはずがない……っ!!)
「茂くん? なんでそんな『この世の終わり』みたいな顔して溜息ついてるの……?」
「あ、いえ……なんでもないです……。ちょっとお茶を淹れ直してきます……」
トボトボと立ち上がった茂は、そのままトレイを持って3階の自室へと逃げ込んだ。
3階の自室に入ると、温風ヒーターの前で気持ち良さそうに目を細めているイグアナの翠さんがいた。
「はぁ……翠さん……。やっぱり君をみどりさんに受け入れてもらうのは、絶望的かもしれない……」
茂はベッドの端に腰掛け、頭を抱えた。だが、のんきに「クピッ」と小さく鼻を鳴らす翠さんを見ていると、どうしても諦めきれない悪あがきが持ち上がってくる。
(いや……待てよ? 見た目のいかつさが問題なら、デコレーションでファンシーさをプラスすればいいんじゃないか……!? 愛嬌さえあれば、ワンチャン……!)
茂はガサゴソと押し入れから裁縫箱と、昔ガチャガチャで集めたミニチュアの帽子コレクションを取り出した。
「ちょっとごめんね、翠さん……」
まず試したのは、シルクハットと小さな蝶ネクタイ。
……結果、目つきの鋭さと鱗のいかつさが強調され、まるで「闇の組織を裏で操るフィクサー」のような圧倒的威厳が漂ってしまった。不可。
次に取り出したのは、小さな麦わら帽子と、ピンクのレースリボン。
茂は翠さんの頭にそっと麦わら帽子を乗せ、太く立派な尻尾の先端に、ちょこんとピンクのリボンを結びつけた。
「ど、どうだ……! これなら……!」
温風ヒーターの温風を受けながら、ちょこんと麦わら帽子を被り、尻尾にピンクのリボンを揺らすイグアナ。
しかし、肝心の顔面はどこまでも無表情かつ鋭利な眼光のままである。
「……無理だ……」
茂は膝から床へ崩れ落ちた。
「リボンをつけようが帽子を被せようが……根本が変わっていない……! イグアナはイグアナだ……っ! これを『可愛い〜!』って喜ぶのは、元から爬虫類が好きな人間だけだ……!」
ファンシーな小物が、むしろ翠さんのワイルドな素材を引き立ててしまっている。自分の愚かな試みを悟り、茂は深い敗北感に包まれた。
みどりさんに受け入れてもらう作戦は、ここに完全に潰えた。
「……はぁ。ごめんね翠さん、変なものつけさせて……外すね……」
茂が手を伸ばした、その時だった。
温風ヒーターの光を浴びながら、麦わら帽子を斜めに被り、微動だにせず佇む翠さんの姿が、ふと茂の目に留まった。
(………………あれ?)
茂の動きが止まる。
(……めちゃくちゃ……可愛いのでは……!?)
無骨な爬虫類と、ファンシーな夏アイテムの謎のアンバランス感。そして何より、帽子を乗せられても嫌がりもせず「なにか?」と言いたげに澄ました顔をしている翠さんの愛くるしさ。
(可愛い……! なんだこの愛らしさは……! 帽子が奇跡的に似合っている……っ!!)
さっきまでの敗北感はどこへやら、茂の脳内で親バカスイッチが盛大に口火を切った。
茂は音を立てずにスマホを取り出し、息を殺してカメラアプリを起動した。
「すごいよ翠さん……完璧なモデルだ……! そのまま……そのまま動かないで……!」
カシャッ、カシャッ、と静かなシャッター音が部屋に響く。
「いいねぇ! 麦わら帽子とピンクのリボンが映えてるよ! 角度変えてもう一枚! そう、その斜め後ろからのラインが素晴らしい……っ!」
すっかり自分の世界に入り込んだ茂は、ローアングルから、時にはベッドに這いつくばりながら、夢中でスマホのシャッターを切り続けた。
みどりさんに見せるという本来の目的などどこへやら。茂のスマホのフォルダは、あっという間に「麦わら帽子のイグアナ」の写真で埋め尽くされていくのだった。
一方その頃。
2階のリビングで、茂がなかなか戻ってこないのを不思議に思っていたみどりは、そっと立ち上がっていた。
「茂くん、お茶淹れるのに時間かかってるな……。今のうちに、ちょっとだけ……」
みどりは足音を忍ばせ、階段を降りて1階のガレージへと向かう。
暗闇の中に置かれたケージの中で、猫の蓮くんが「ニャ〜」と甘い声で擦り寄ってきた。
「蓮くん〜! ごめんね、待たせちゃって!」
みどりはケージから蓮くんを抱き上げ、その身体にぐっと顔を埋めた。
今朝『キャットシティ』から引き取る際、奮発してフルコースのトリミングとシャンプーを施してもらったばかりなのだ。いつも以上にふわっふわでシルクのように整った極上の毛並みと、ほのかに漂うフルーティーなシャンプーの香りに、みどりの目尻がとろけそうに下がる。
「ん〜〜っ、良い匂い……! やっぱりプロのトリミングは違うわねぇ……っ」
愛おしそうに何度も頬をすり寄せながら、みどりは語りかけた。
「茂くんには『お友達の猫』ってことにして誤魔化せたからね……! もう少しここで我慢してね。いつか絶対、2階で一緒に暮らせるようにするから……!」
ガレージで極上の毛並みに頬擦りしながら野望を燃やす妻と、3階の自室でイグアナの撮影会に狂喜乱舞する夫。
お互いの秘密が1階と3階で深まる中、二人の「隠しペット冷戦」は、静かに次のフェーズへと向かっていた。




