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第13話『虫を食う夫と引き気味の妻』

不倫疑惑が晴れ、1階と3階でそれぞれ隠しペットとの秘密の時間を楽しんでいたのも束の間。3階の茂の自室で、緊急事態が発生していた。

温風ヒーターの前で、いつもならシャキッと頭を上げているはずのイグアナ――翠(みどり)さんが、ぐったりと目を閉じて横たわっていたのだ。大好きな小松菜やチコリを口元に差し出しても、力なくぷいと横を向いてしまう。

「み、翠さん……!? 翠さんっ!?」

茂は血の気が引く思いで翠さんに駆け寄った。

あわてて餌箱の中を検分した茂は、底に落ちていた「それ」を見て息をのんだ。

野菜のくずの中に落ちていたのは、小さな昆虫の脚一本だった。

(な……虫っ!? 野菜にくっついてたのか……っ!? 脚以外がないってことは……本体を食べちゃったのか……っ!?)

完全草食性であるグリーンイグアナにとって、昆虫などのタンパク質や消化できない虫は胃腸に猛烈な負担をかけることがある。

「どうしよう……僕がちゃんと野菜を洗わなかったから……っ! ごめんね翠さん……っ!」

半狂乱になった茂は、保温ライトの角度を調整し、ぬるま湯で湿らせたタオルで体を拭き、必死の看病を始めた。

オロオロと階段を行き来し、脱水症状を防ぐための経口補水液とスポイトを取りに2階のキッチンへ駆け下りる茂。汗だくで青ざめ、目を見開いてキッチンをうろつくそのあまりの動転ぶりに、リビングのソファでくつろいでいたみどりが不審そうに声をかけた。

「茂くん? さっきから顔色悪いけど、どうしたの? なんだか元気ないじゃない」

みどりは、ただごとではない様子の夫を心底心配して覗き込んだ。

(やばい……っ! 『イグアナの翠さんがお腹を壊した』なんて口が裂けても言えない……っ!!)

頭の中がパニックを起こしていた茂は、咄嗟に主語をすっぽかして答えてしまう。

「あ、いや……みどりさん……。実は……すごくお腹を壊したみたいで……」

「えっ!? お腹壊したの!? だからそんなに顔色が白いの!?」

みどりは驚いて身を乗り出した。

「うん……もうぐったりしてて……全然動けないんだ……」

「大変じゃない!! なんか変なものでも食べたの!?」

心配でたまらないみどりに追いつめられ、頭の中がイグアナの体調のことでいっぱいの茂は、つい原因を漏らしてしまう。

「……うん……虫を……」

「……は?」

みどりの動きがぴたりと止まった。

「む……虫……?」

「はい……種類まではわからないですが……」

明後日の方向を向いた茂の真面目な返答に、みどりの目線が点になった。

(し、種類……!? 何の種類か気にしてる場合……!?)

みどりの脳内で、「夫が目の前に現れた虫をそのまま口に放り込み、無心でムシャムシャと咀嚼して腹を壊した」という地獄のような絵面が完全に固定された。

「茂くん……あなた……虫食べちゃったの……? しかも種類も確かめずにムシャムシャと……!?」

「えっ!? あ、いや違うんです!!」

茂は手をぶんぶんと振って否定したが、焦れば焦るほどみどりには「図星だから慌てている」ようにしか見えなかった。

「もういいから! 茂くんはお部屋で横になってて! お薬と温かいお湯持っていくから!」

「あ、いえ! 僕のお腹は大丈夫なんです! 本当に大丈夫なんです!!」

茂は逃げるようにスポイトと補水液を持って3階へと駆け上がっていった。

みどりはぽつんとキッチンに取り残され、夫が駆け上がっていった階段を呆然と見つめた。

「茂くん……最近脚本の締め切りでストレス溜まってたのかな……。まさか虫をムシャムシャ食べるなんて……」

ドン引きとショックと心配がごちゃ混ぜになり、みどりは頭を抱えた。

その後、茂の必死の看病と、ぬるま湯での保温が功を奏したのか、夜になる頃には翠(みどり)さんの体調は無事に回復した。

「良かった……本当に良かった……っ!」

元気に小松菜を食む翠さんの姿に、茂はベッドの脇で涙を流して胸を撫でおろしたのだった。

しかし、問題は翌朝からだった。

2階のリビングで朝食を食べている時、茂はある違和感を覚えた。

「みどりさん、お醤油取ってもらってもいいですか?」

「あ、うん。はいどうぞ」

みどりは醤油差しをテーブルの上に置くと、すっと自分の椅子を30センチほど後ろに引いた。

「……みどりさん?」

「な、なに? なんでもないわよ?」

みどりは笑顔を浮かべているが、その目は明らかに茂と一定のソーシャルディスタンスを保とうとしている。

会話をしていても、どこかよそよそしい。茂が歩み寄ると、みどりはさりげなく一歩後退する。

(な、なぜだ……!? みどりさんの『男の影』の疑惑は一昨日あんなに綺麗に晴れたはずなのに……! なぜみどりさんは僕から微妙に距離を置いているんだ……!?)

茂の脳内で、持ち前の過剰な妄想回路が猛スピードで回転を始める。

(まさか……僕に内緒でやっぱり男と会っていて、僕に冷めてしまった……!? それとも、僕の体臭が臭いとか……!?)

まさか自分が「自ら進んで虫をムシャムシャ貪り食った狂気の夫」として引き減ろされているとは知る由もない茂であった。

こうして、翠さんの腹痛騒動は無事に収束したものの、みどりが茂から微妙に距離を置く「昆虫食ショック期間」が、数日間にわたって続くのだった。

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