14話『アロマの香りと消えない体臭』
「お前! くせーんだよっ!!」
「ひええええっ!?」
茂は飛び起きた。
激しい動悸と、背中を吹き出す大量の冷や汗。息を荒らげながら心臓を押さえる。
夢だった。恐ろしい悪夢だ。夢の中のみどりさんは、いつもの可憐でツンデレな面影など微塵もなく、般若のような恐ろしい形相で茂を指差し、大音量で暴言をぶつけてきたのだ。
(夢……だよな? でも……あまりにもリアルだった……っ!)
ハッと横を見ると、カーテン越しにうっすらと朝の光が差し込む寝室で、隣のベッドは既に空っぽだった。みどりさんは朝食の準備で、既に2階へ下りたのだろう。
茂はごくりと唾を飲み込んだ。ここ数日、みどりが自分と距離を置いているのは紛れもない事実だ。昨日の朝も、醤油差しを渡しただけでスッと椅子を30センチ引かれた。
「まさか……本当に……僕の体臭が臭いからなのか……!?」
疑惑を確かめるべく、茂は意を決して身を乗り出した。
まずは、みどりの枕を引き寄せ、慎重に鼻を近づける。
(……すーっ、はーっ……。う、美しい……。お花畑と、ほのかな石鹸の甘い香り……)
次に、自分の枕を両手で抱え込み、思い切り息を吸い込んだ。
(……すーっ、はーっ……! ぶはっ!?)
茂は白目をむいて崩れ落ちた。
(な、なんだこの香ばしすぎる匂いは……!? 渋い煎茶と、男の汗の匂いが混ざり合ったような……なんとも言えない重厚感……っ! みどりさんのお花畑と比べたら、僕の枕はただの渋みだらけの茶葉だ……っ!!)
「やっぱりだ……っ! みどりさんが避けていたのは、僕の体臭のせいだったんだ……っ!!」
確信を得た茂は、着替えるのももどかしく家を飛び出し、開店直後のドラッグストアへ滑り込んだ。
強力制汗スプレー、メントール配合のメンズボディシート、薬用デオドラントシャンプー、爽快メンズボディソープ。カゴいっぱいにデオドラント商品を買い込み、帰宅するやいなやバスルームへ直行した。
「落ちろ……っ! 僕の汗の匂いよ、落ちてくれ……っ!」
皮膚が赤くなるほど全身をゴシゴシと洗い上げ、風呂上がりに強力なシトラス系の制汗スプレーをこれでもかと全身に浴びた。
数十分後。人工的なシトラスの香りを猛烈に漂わせながら、茂は2階のリビングへとやってきた。
「み、みどりさん。おはようございます」
キッチンにいたみどりは、振り返った瞬間、漂ってきた強烈なシトラス臭に思わず「うっ」と鼻をうごめかせた。
(し、シトラス……!? なにこの凄まじい制汗剤の匂い……っ!?)
みどりは目を見開いた。
一昨日、正体不明の虫をむしゃむしゃ食べたと告白して(※注意:言ってません)、お腹を壊していた夫。そのショックと奇行にドン引きし、思わず距離を取っていたのだが――目の前の茂は、尋常ではない量の制汗剤を全身に塗りたくって現れたのだ。
(茂くん……やっぱり脚本のストレスで、自分の感覚までおかしくなってるんじゃ……!? 体調が悪いのに、変な匂いに包まれて……心が極限まで追い詰められているんだわ……っ!)
みどりの瞳に、深い憐れみと心配の光が宿った。
「茂くん……ちょっと座って?」
「あ、はいっ!」
(よし……っ! 鼻をつまんでいない! 僕の洗体作戦は成功したのか……!?)
期待に胸を膨らませてソファーに座る茂に、みどりは奥の部屋から出してきた『小さな箱』を優しく差し出した。
「これね……茂くんのために買ってきたの。使ってみて」
「え……? 僕に……?」
茂が箱を開けると、そこには洗練されたデザインのアロマディフューザーと、ラベンダーやウッド系のアロマオイルのセットが入っていた。
「茂くん、最近忙しくて……すごく疲れてるでしょう? 心が休まってないと思うの。だから、お部屋でこれを焚いて、ゆったり心を落ち着かせてほしいなって……」
みどりは心底夫を気遣う、温かい眼差しを向けた。
(これで少しでも精神が休まって、虫を食べちゃうような奇行が収まるといいんだけど……)
しかし、茂の過剰な被害妄想回路は、その優しさを地獄の解釈へと変換した。
(あ……あ……っ!?)
茂の顔からスーッと血の気が引いていく。
(『心が疲れてる』なんて優しい言葉で包み隠しているけれど……これは……『制汗スプレー程度じゃ誤魔化せないくらい、お前は根本的に臭いから部屋でアロマでも焚け』という、遠回しで決定的な引導……っ!!)
「茂くん? どうしたの、顔色が悪いけど……」
「あ、いえっ……! あ、ありがとうございますみどりさんっ! 僕、大切に使わせていただきますっ!!」
茂は涙目になりながらアロマセットを両手で抱え、逃げるように3階の自室へ駆け上がっていった。
みどりは、階段を見上げてぽつりと呟いた。
「喜んでくれた……のかな? なんだか泣きそうな顔をしてたけど……やっぱり限界なんだわ……」
3階の自室。
「僕は……僕は臭いんだああああっ……!!」
茂はベッドに突っ伏し、声を殺して号泣した。
デスクの上では、みどりからもらったアロマディフューザーから、心地よいラベンダーの蒸気がフワリと立ち上っている。
その横で、温風ヒーターの前に座っていたイグアナの翠さんは、お腹の調子もすっかり戻り、部屋に満ちるラベンダーの香りに「なにこれ?」という顔でパチパチと目を瞬かせていた。
アロマの上質な香りと、自分の悲痛な涙に包まれながら、茂の思い込みによる迷走はさらに深まっていくのだった。




