第35話『優しさと引導』
昨日の「殺意の波動」事件から一夜が明けたリビング。
そこには、世界で最も惨めな形で気配を消し去る技術を修得しつつある男——烏丸茂の姿があった。
ソファーの片隅に小さく膝を抱えて深く沈み込み、肺の呼吸音すら極限まで殺している。みどりがキッチンで湯沸かし器のスイッチを押す小さな「カチッ」という音ひとつで「ひっ!?」と肩を跳ねさせ、廊下から足音が近づけば、音もなく立ち上がって直立不動のまま壁の模様と同化しようと試みる始末だった。
前日に目撃した、みどりのあの瞳。ドブ川の底のような濁った光を宿し、全身から立ち昇っていた粘度の高い漆黒のオーラ。そして、ミキミキと骨を軋ませながら鳴らされた指の音。あの圧倒的な暴力の予兆は、茂の繊細なガラスの精神を跡形もなく粉砕していた。
(あ、危ない……! 今、みどりさんの足音が右から左へ移動した……! 警戒レベルレッドだ。一歩間違えれば、あの『殺意の波動』が再び僕を襲う……!)
冷や汗をだらだらと流しながら壁に張り付く茂の怯えきった様子を、みどりはキッチンから冷めた目……もとい、少しばかり申し訳なさそうな目で見つめていた。
(……うーん。さすがに昨日はキレすぎちゃったかしら? 物理的に殴る宣言までしちゃったし……あのビビりよう、本格的にトラウマになってるじゃない)
自慢の愛猫に拒絶されたショックがあったとはいえ、あまりにも容赦なく圧をかけすぎたと、みどりなりにほんの少しだけ反省していた。
(まあ、私の方が年上だしね。ここはひとつ大人になって、私から折れて優しく接してあげるのが『お姉さん』としての余裕ってやつよね。ここで優しさを見せつけて、昨日の恐怖を塗り替えてあげるのが真の包容力ってものよ)
妙な自己満足とプライドを急速に膨らませたみどりは、表情をガラリと変えた。普段のサバサバした雰囲気を完全に投げ捨て、花がほころぶような満面の笑みを浮かべる。そして、両手をあからさまに背中に隠したまま、いつも以上に甘く柔らかい、猫なで声のようなトーンで茂へと歩み寄った。
「ねえ、茂くん♪」
「ひっ……!?!?」
聞き慣れているはずの自分の名前。しかし、そこに乗せられた尋常ではない甘さと、あからさまに作られた温度感に、茂の背筋へ激痛のような寒気が走った。細胞の一つ一つが警鐘を鳴らしている。背中に回された両手も怪しすぎる。何か恐ろしい武器でも隠しているに違いない。みどものその笑顔は、茂の目には『熟練の拷問官がターゲットの心を折る前に浮かべる慈愛のスマイル』にしか見えなかった。
「な、なんですか……! 僕に何か用でしょうか……!? 」
「そんなに怯えないでよ〜。昨日はちょっと言いすぎちゃったかなって反省しててさ。……あ、そうだ! 今日は茂くんに渡したいものがあるの!」
そう言って背中の手をさらに隠すようにねじらせるみどり。茂の妄想は一気に最悪のシナリオへと突き進む。
「い、引導ですか……!?(泣) ついに僕の命の灯火を消す覚悟を決められたのですか!!?」
「なんでよ!? 違うわよ、プレゼントよ!」
「プ、プレゼント……!? それはもしや……て、天国の永住権でしょうか……?(泣) 僕に死を賜るためのデスチケット……!?」
「違う! コレよコレ!!」
痺れを切らしたみどりは、「お姉さんの余裕」を早くも半分ほど崩壊させながら、背中から重厚な黒い化粧箱をバシッとテーブルの上に叩きつけた。高級感あふれるベルベット調の生地で覆われた、細長くて重みのあるシルエットの箱である。
茂はガタガタと膝を震わせ、まるで爆発物処理班が時限爆弾の配線を切るかのような極度の緊張感と慎重さで、指先を震わせながらその箱の蓋に手をかけた。
(くっ……! この重厚な黒! 金色の装飾! 間違いなく中身は、僕の息の根を止めるための特注の暗器……!)
覚悟を決めて蓋を開ける。そこに収まっていたのは、漆黒の高級樹脂の軸に、美しいゴールドのクリップが気品高く映える、一本のシックで上質な万年筆だった。
「……こ、これは……」
「前に茂、仕事で使うちょっといい万年筆が欲しいって言ってたじゃない? だからその……昨日のごめんねも込めて、奮発して買ってきたのよ」
みどりが柄にもなく少し照れくさそうに、頬をかきながら笑った。
だが、茂の脳内フィルターはすでに正常な機能を失っていた。「漆黒の軸」は死の象徴に見え、「ゴールドの輝き」は命を刈り取る鎌の光に見える。みどりの照れ笑いは「うまく騙せた」という暗殺者の冷笑に変換された。
茂は万年筆を両手で握りしめたままガバッと跳ね起き、涙目でリビング全体に響き渡る声で絶叫した。
「これを使って、遺書を書けと!? それとも遺言書ですか!? 家族への遺言と、全財産の譲渡誓約書を僕自らの手で認めろという凶悪な拷問ですね!!?(泣)」
「だからなんでそうなるのよバカ!! 普通にプレゼントよ!!!」
「だ、騙されませんよ! この漆黒のボディは僕の未来の暗闇を、この金のクリップは途切れた命の糸を表しているに決まっています!!」
「表してないわよ! ただのデザインよ!!」
必死に否定するみどりだったが、ここでブチ切れて手が出たら、せっかく用意した「年上としての余裕」が完全に台無しになると必死で踏み留まった。ぐっと眉間に寄りかけた青筋を引っ込め、引きつった笑みで口角を無理やり引き上げると、トドメの「優しさ」を繰り出す。
「もう……本当に茂くんは大袈裟なんだからぁ。……じゃあ、気を取り直して! 今日のお夕飯は茂くんの好きなもの、なんでも作ってあげる!」
「ひぃぃっ!! 最後の晩餐ですね!!? 毒を盛る気ですか!? 」
「誰が毒盛るか!! ええい、せっかく優しくしてやってんのに!!!」
年上として大人な対応をしていたみどりの眉間には、今度こそバツンと極太の青筋が浮かび上がっていた。
どれほど甘い言葉をかけようと、どれほど上質な贈り物を差し出そうと——みどりの「優しさ」は、トラウマで完全に乾ききった茂の心には、一滴も届かないのであった。
(第35話・おわり)




