↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
36/41

第36話『ネチネチの証明』

人は、圧倒的な暴力の恐怖に晒されている時、日常の小さな傷には鈍感になるものだ——そう思っていた時期が烏丸茂にもあった。

しかし現実は違った。みどりの「殺意の波動」に怯え、生きた心地のしない日々を送りながらも、茂の繊細すぎる精神は職場での下らない一言によって見事に追い打ちをかけられていたのである。

事の発端は、今日の午後、テレビ局の打ち合わせ室でのことだった。

今回の番組で一緒になった今年度入ってきたばかりの新人アシスタントディレクター(AD)が、茂の横で缶コーヒーを飲みながら、ヘラヘラとした呑気な笑みを浮かべてこう言い放ったのだ。

『いや〜、烏丸先生ってマジしつこいって噂スよね〜w なんか聞いたんスけど、3年前になくされた怪獣のおもちゃの件、いまだにごちゃごちゃネチネチ言ってるってマジすか? ぶっちゃけ誰も覚えてないっすよww』

(——し、しつこい……? ネチネチ……!?)

その瞬間、茂の脳内で何かが激しく崩れ去る音がした。

3年前、とある番組の小道具として貸したまま戻ってこず、一人泣き寝入りしていたあの『タッコング』。茂としては、「他人の大切な所有物に対する敬意」と「物の貸し借りにおける最低限のマナー」について、番組スタッフたちに懇々(こんこん)と道理を説明していただけなのだ。

しかも説明は1回だけだ。

それを……当事者でもないこの新人ADが、「噂で聞いた」「たかが無くされたおもちゃ」「いつまでネチネチ言ってるんだ」とバカにするように笑うとは……!

『烏丸先生〜? 聞いてます? またそうやって固まるところがガチっぽいんスよ〜ww』

新人ADは脚本家としての茂を怖がるどころか、完全に「イジりやすい小うるさい先生」としてナメきっていた。家ではみどりの一挙一動に命の危険を感じている茂が、職場では若者に1ミリも恐れられず、ただの「しつこい男」として扱われている。この惨めなギャップが、茂のプライドを深く、深く抉っていた。

◇

「……ただいま帰りました……」

夕刻。二人が働く店舗兼住宅のドアを、まるで敗走した兵士のような重い足取りで開ける茂。

リビングでは、昨日の「万年筆プレゼント大失敗」から一夜明け、みどりがソファーでくつろぎながらテレビを眺めていた。みどりとしては、昨日の「毒殺未遂扱い」のショックをまだ少し引きずっており、茂に対してどう接するべきか微妙に気まずさを感じていた。

だが、帰宅した茂の雰囲気がいつもと違う。

いつもの「みどりの殺気から身を隠す忍者」のような挙動ではなく、どんよりとした暗い影を背負い、ゆらゆらと揺れながらソファーへと近づいてくるのだ。

「……? なによ茂くん、顔色悪いわよ。また私の足音で心臓でも止まりそうになったわけ?」

みどりがサバサバとした調子で尋ねると、茂はソファーの少し離れた位置に腰を下ろし、膝の上に両手を揃えて置いた。そして、前髪の隙間から、どこか不安げで、かつ粘着質な光を宿した瞳でみどりを見つめてきた。

「……みどりさん」

「なによ」

「あなたは私の妻ですが、今だけはちがいます。」

「……非常に客観的で、公平な、第三者としての意見を伺いたいのですが」

「は? なに急に。堅苦しいわね」

茂はゴクリと唾を飲み込み、意を決したように口を開いた。

「……僕って、しつこいですか?」

「……は?」

みどりは拍子抜けしたように目を丸くした。万年筆を「遺書」と言い張り、夕飯を「最後の晩餐」と恐れた男が、開口一番に尋ねてきたのが「自分はしつこいか」という実にくだらない質問だったからだ。

「なによそれ。急にそんなこと聞いてどうしたのよ」

「いいから答えてください! 僕は……僕という人間は、根に持つタイプでしょうか? ネチネチと過去の出来事を蒸し返す、器の小さい、しつこい男に見えますか!?」

真剣そのものの表情で詰め寄ってくる茂。みどりはため息をつき、気まずさを紛らわすように腕を組んだ。

(……まあ、めんどくさい性格だとは思うけど、ここで『しつこい』なんて言ったらまた被害妄想をこじらせて大騒ぎしそうだしね……)

年上としての「大人の対応」を再び発動させたみどりは、努めて穏やかな声で言った。

「別に……しつこくないんじゃない? 茂くんはちょっと細かいところがあるだけで、普通よ普通」

「本当にそう思っていますか!?」

茂の身乗り出し方に、みどりは思わず顔を背けた。

「気を使って言っていませんか!? 本当のところはどうなのです!? 例えば……そう、例えばですが! 3年前の怪獣のおもちゃの件とか、僕が今でも根に持っているように見えたりしますか!?」

「怪獣のおもちゃ……? ああ、あのタッコングのこと?」

みどりの脳裏に、秋葉原で恥をかいた記憶とガレージでのスライディングが走馬灯のように駆け巡る。

「ほら! 覚えていらっしゃる! ということは、僕が普段からその話をみどりさんにしていない証拠です! 普段からしていたらまたその話!?となるはず!つまり僕はしつこくない! なのに今日の打ち合わせで……あの新人ADが僕を『ネチっすねw』などと愚弄したのです! みどりさん、正直に言ってください! 本当に僕はしつこくないですね!? ねぇ!?」

「うん。しつこくないわよ!」

「では、なぜあのADはそう言ったのでしょうか!? 僕の何が彼に『しつこさ』を感じさせたというのですか!? 過去の言動を振り返ってみても、僕はごく当たり前の道理を説いていただけであり、回数にしてみれば4〜5回、タッコングの価値と貸し借りのマナーについて説明していないのですよ!? これのどこがネチネチだというのですか! ねぇみどりさん! どう思いますか!? ねぇってば!!」

「しつこくないってば!!」

茂は続ける。

「でもですよ、何年も一緒に仕事をしてきた方になら100歩譲ってしつこいと言われてもしょうがないですが、あのADさんは新人ですよ?会ったのだって2〜3回ですよ?なのに僕をしつこい男と認識している、、、やはりそれって私を第一印象からしつこいと思ったからなのでは?」

みどりはつい大きい声になってしまう。

「いい加減にして!だから茂くんはちっともしつこくないってば!!!」

「しかし彼が言うには、、、」と茂が言いかけた瞬間みどりの眉間の真ん中に、バツンと音を立てて太い青筋が浮き上がる。みどりは静かにソファーから立ち上がると、すがりつくように問いかけてくる茂の胸ぐらを両手でガシッと掴み上げた。

「……さっきから、何回同じこと聞いてんのよ……」

「ひっ……!? い、いや、僕はただ自分がしつこくないという確証が欲しくて……!」

みどりはため息をつき怒りに震えながらゆっくりとこれを最後にしてくれと言わんばかりに威圧的に言った。

「だ・か・ら!! 茂くんはちっともしつこくないってば!!!!!」

「説得力がゼロだーーーっ!!(泣)」

「いい加減にしなさーーーい!!!」

みどりの怒号がリビングに響き渡り、茂は己の「しつこさ」を完璧に証明する形で、またもパニックに陥るのであった。

(第36話・おわり)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。