第32話『焼肉と羊羹』
「ガレージ開帳事件」から数日後のリビングには、依然として不穏で勝者優位な空気が漂っていた。
「あ、みどりさん。おはようございます。今日もお美しいですね」
リビングに降りてきたみどりに、ソファで優雅にコーヒーを飲んでいた茂が爽やかな笑みを向けた。いつもならみどりの機嫌を窺ってビクビクしている男が、メガネの奥の目を怪しく光らせている。
「……何よ」
みどりは視線を逸らし、気まずそうにキッチンへ向かった。自身の暗黒V系ポエムノートを晒された恥ずかしさは、そう簡単に消えるものではない。
「いえ、お茶を淹れられる姿も神聖だなと。ふふっ、今のキッチンはまるで聖域ですねw ただ……右腕の封印がうずいて湯呑みを落とさないよう、お気をつけくださいねw」
「〜〜〜〜〜〜っっっ!???」
みどりの手がピタリと止まり、背中が跳ね上がった。林檎のように顔を真っ赤にして振り向く。
「ま、また言ったわねバカ茂っ! 忘れてって言ったでしょーがっ!」
「フフッ……気をつけないと、僕のコーヒーカップをディストラクションしたら僕は非常にメランコリックですよ。みどりさんをパニッシュメントするかもしれませんよwww」
「……ちょっと待ちなさいよ。なんなのさっきから? ディストラクションだのメランコリックだの……もう厨二病っていうかルー大柴じゃないの!!」※
(※知らない人はお父さん、お母さんに聞いてみよう!)
「〜〜〜〜っっっ!? ルー大柴ではありません! 僕は漆黒の闇を纏う者です!!」
「一緒よバカ茂っ! くだらないカタカナ並べて煽ってんじゃないわよーーーーッ!」
「痛快……実に痛快です。それでは僕は打ち合わせに行ってきますね。愛と絶望のヴァルハラに乾杯w」
茂は満足そうにコートを羽織ると、軽やかな足取りで家を出て行った。
残されたみどりは、プルプルと拳を震わせながらリビングで一人悶絶していた。
「あいつ……マジで調子に乗りやがって……っ! 絶対に……絶対にタダじゃおかないから……ッ!!」
◇
その日の深夜。時刻はすでに午前0時
を過ぎていた。
自分の部屋のベッドの上で、みどりは手に持ったスマホを睨みつけながらイライラをくすぶらせていた。昼間の茂のニヤけた顔とウザすぎるカタカナ語がチラついて、到底眠れそうにない。
その時、手の中でスマホがブルブルと激しく震えた。画面には『茂くん』の表示。
「……何よこんな夜中に。追い打ちの煽りだったら着信拒否してやるんだから」
不機嫌全開で通話ボタンを押し、耳に当てた。
「はいはい、何かしら」
『も、もしもし!? みどりさんですか!?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、昼間の余裕など微塵もない、焦りきった茂の声だった。
「なによ急に。また原稿が燃えたとかいう妄想?」
『違います! あの……今、歌舞伎町の叙々苑にいるんですけど……! 今から歌舞伎町の叙々苑に来れませんか……っ!?』
「……は? 歌舞伎町?」
みどりは一瞬、言葉を失った。
新宿・歌舞伎町。深夜。そして……叙々苑。
みどりの脳内で、過去の記憶と今の状況が高速でリンクし、超強力な化学反応を起こした。
(……え? 歌舞伎町の……叙々苑……!? 游玄亭もあるあの超高級店……!? あいつ、昼間やりすぎたって自覚があったんだ……! だから深夜営業してる歌舞伎町の叙々苑に私を呼び出して『昼間はごめん、焼肉奢るから許して』って……お詫びのディナーをご馳走する気なんだ……!?)
完璧すぎる推論。みどもの胸の中で、少女漫画のような淡い期待と、空腹の食欲が爆発した。
「……まぁ、そこまで言うなら行ってあげないこともないわね。歌舞伎町でしょ? すぐ準備して行くから、店の中で待ってなさい!」
『えっ! 本当ですか!? 助かります……っ!!』
電話を切るやいなや、みどりはベッドから跳び起きた。
ヨレヨレのパジャマを速攻で脱ぎ捨て、クローゼットからお気に入りの綺麗めなワンピースを取り出す。ボサボサだった髪を丁寧にセットし、鏡の前でリップを塗り直し、完璧なバッチリメイクを施した。
「ふふっ♪ 深夜の游玄亭でお詫び焼肉なんて、まぁ悪くないじゃない♪ 散々煽られた分、一番高い上カルビ頼んでやるんだから!」
ウキウキで愛車のキーをひったくり、深夜の首都高へと飛び出した。
◇
約40分後。
指定された歌舞伎町の高級焼肉店が入るビルの下に車を滑り込ませた。みどりは弾む胸を押さえながら、バックミラーでメイクを最終チェックし、茂に電話をかけた。
「もしもし茂くん? 今、お店の下に着いたよ〜」
『あ、本当ですか!? 今すぐ行きます!』
(ふふっ、お店の上階から私を迎えるために降りてくるのね……! どんな顔して『待たせてごめんね』って言ってくるかしら……///)
みどりがウキウキで助手席の荷物を後部座席へ移動させていると、突然、助手席の窓ガラスがトントンと叩かれた。
「ひゃいっ!?」
驚いて横を見ると、そこにはビルの中からではなく、道路脇の暗闇からぬっと現れた茂が、ホッとした表情で立っていた。
「いや〜! 助かりましたみどりさん! 実は人身事故で電車が止まっちゃって、タクシーも長蛇の列で途方に暮れてたんです! 車で来てくれて本当に神様に見えましたよ!」
「え……? あ、急にどうしたの……? ていうか、店から降りてきたんじゃないの……?」
助手席のドアを開け、慌ただしく乗り込んでくる茂。その瞬間、締め切られた車内に香ばしい極上カルビと甘辛いニンニクのタレの匂いが爆風のように充満した。
「ふぅー、助かった……。本当に命の恩人です!」
満足そうにお腹をさする茂。みどりはニコニコ顔から一転、引きつった笑顔で尋ねた。
「……ねぇ、茂くん」
「はい?」
「……焼肉は?」
「はい? ああ、すっかりご馳走になっちゃいました! いやー、やっぱり高級店のお肉は違いますね! 上タン塩も絶品でしたし……いやぁ、ハラミも柔らかかったなぁ〜! 口の中でフワッと消えるんですよ!」
「………………」
「プロデューサーさんが『烏丸先生、今日は好きなだけ食べてください!』なんて言ってくださるから、カルビもロースも思いっきり堪能させていただきまして……あ、みどりさん? なんでそんな恐ろしい顔で僕を見つめて……」
みどりの脳内で、何かが音を立ててブチ切れた。
(髪もセットした……! 化粧もバッチリした……!! 昼間の煽りのお詫びに叙々苑のお肉が食べられると思って……深夜に車飛ばしてきたのに……っ!!)
(お肉を反芻しながら『ハラミも柔らかかったなぁ〜』だあぁぁぁっ!?? ただの無料タクシー扱いーーーーーっ!?)
殺気立つ車内。茂はガタガタと震えながら、慌てて足元に置いていた紙袋を差し出した。
「あ! 違いますみどりさん! お土産! お土産がありますっ!! 打ち合わせ相手のプロデューサーさんからいただいたんです!」
みどりは一瞬、ハッと目を見開いた。
(お、お土産……!? 叙々苑の……『高級焼肉弁当』……!? 茂くん、私に持ち帰るために頼んでおいてくれたの……!?)
「……まぁ。反省してるなら、許してあげないこともないけど……」
ウキウキで紙袋をひったくり、中身を覗き込んだみどり。
そこに鎮座していたのは——ズッシリと重い、老舗和菓子店の金文字が踊る桐箱だった。
「……なにこれ」
「老舗の高級羊羹です! 羊羹って日持ちしますし、みどりさん甘いもの好きかなと思って!」
「………………」
「え? 羊羹、お好きじゃなかったですか……? 桐箱入りですよ……?」
みどりは桐箱を握りつぶしそうな勢いで、茂の胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「口がっ!! 完全にお肉の口になってたのよーーーーっ!! 今さら羊羹出されても何の意味もないでしょうがーーーーっ!!」
「ひぎゃあああっ!? なぜですか!? 高級羊羹ですよ!? 美味しいですよ!?」
「昼間散々煽っておいて!! 深夜に車出させて!! ひとりでハラミ堪能して羊羹かよ!! バカ茂!! 今から24時間営業のすき家に行くわよ!!」
「え、す、すき家っ!?」
「カルビ丼特盛り! 卵付きで奢りなさいよーーーーっ!!」
「は、はいぃぃぃっ! 喜んで奢らせていただきますーーーっ!!」
手に入れた「切り札」で勝者気取りだった茂の優位は、一瞬で藻屑と消えた。
深夜の新宿の街に、車をすき家へと爆走させるみどりの怒号と、胸ぐらを掴まれ怒鳴られ怯える茂の悲鳴が虚しく響き渡るのだった。
(第32話・おわり)




