第25話『脱走者と誤解』
翌朝。朝日の差し込む3階の書斎で、茂の手にあった小松菜のお皿がカシャリと音を立てて床に落ちた。
昨日の猫カフェの疲労と安心感から、少しだけ締め忘れていた大型温室ケージの扉。そこが、わずかに数センチほど隙間を開けていたのだ。
「エェッ!? ま、また……!? 嘘っ……嘘でしょ翠さんっ!!??」
血の気が引き、茂は頭を抱えてその場に膝をついた。
以前にも一度だけ、ケージの鍵を閉め忘れて翠さんが逃げ出したことがあった。だが、あの時は幸いにも書斎の扉が閉まっていたため、部屋の中を探すだけで済んだのだ。
しかし、今は――書斎のドアがしっかりと開いている。
(家全体だ……ッ! 家全体に翠さんが野放しになっている……っ!! もしも下へ降りて、みどりさんに見つかったりしたら……ッ!!)
『茂くん……私に黙って巨大なトカゲを飼ってたの……?』と引きつった笑顔で離婚届を突きつけてくるみどりの幻影が脳裏をよぎり、茂の全身から滝のような冷や汗が吹き出した。
(探さなきゃ……! みどりさんに悟られないように、極秘で家中を捜索するんだ……っ!!)
茂は廊下に飛び出すと、階段の手すりにへばりつき、息を殺して下の階の気配を探った。
その時だった。
「きゃあああああっっ!?」
2階のリビングから、裂けるようなみどりの悲鳴が響き渡った。
(見つかった……っ!! 翠さんがリビングに侵入して、みどりさんと鉢合わせたんだ……っ!!)
茂の心臓が凍りついた。終わった。僕の平和な夫婦生活が、今この瞬間に崩れ去った――!
「み、みどりさぁぁぁんっっ!!」
茂は覚悟を決め、階段をすっ飛ばすような猛ダッシュで2階へと駆け下りた。リビングのドアを勢いよく蹴破るように開ける。
「みどりさん! 大丈夫ですかっ……僕が……僕が説明――」
そこにあったのは、ソファの上に駆け上がり、クッションを盾にして床の一点を指さして震えているみどりの姿だった。
「茂くんっ! あそこ! あそこに……クモがいるのぉ……っ!」
「……えっ?」
茂が視線を落すと、そこには体長1センチほどの小さな足高グモが、床のフローリングをカサカサと優しく歩いていた。
緑色の巨体も、長い尻尾もない。ただの小さなクモである。
(み、翠さんじゃない……! クモだ……! 良かったぁぁぁぁぁ……っっ!!)
安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになる茂。しかしいつまでも怯えるみどりを見かねて、即座にポケットからティッシュを取り出すと、床のクモを潰さないよう優しく包み込んだ。
「大丈夫ですよみどりさん、僕が外に逃がしてきますから――」
「茂くん駄目っ!! 食べちゃダメよぉぉぉっ!!」
悲壮感漂うみどりの絶叫がリビングに木霊した。
「……はい?」
ティッシュを握りしめたまま、茂の動きがピタリと止まった。
「食べちゃダメって……え? 僕が……これをですか……?」
みどりはソファの上から必死の形相で手を伸ばし、涙目で訴えてきた。
「お願いだから! 確かに昔、脚本のストレスで虫をムシャムシャ……」
そこまで叫んで、みどりはハッと口をつぐんだ。
(※第13話参照:かつて「茂がストレスで虫を貪り食った」と猛烈に誤解しているみどりは、立ち直った夫のトラウマを刺激しないよう咄嗟に自制したのである)
(いけないわ! せっかく立ち直ったのに、あんなツライ過去を思い出させるような事は言わない方がいいわよね……!)
みどりは慌てて表情を取り繕うと、両手を振った。
「……な、なんでもないの。とにかく食べちゃダメよ!」
(昔……? ムシャムシャ……?? ???)
茂の頭の上に、巨大なハテナが数百個ほど浮かび上がった。
言われている意味が1ミリも理解できない。なぜ自分が目の前のクモを食べる前提で話が進んでいるのか。だが、ここで「何のことですか?」と追及して時間を浪費すれば、その間に脱走中の翠さんが本気で見つかってしまう。
「あ、アハハ……。食べないですよ……外に逃がすだけです……」
茂は引きつった愛想笑いを浮かべると、ロボットのような動きでベランダの窓を開け、クモを外へとリリースした。
「良かったぁ……。茂くん、ちゃんと耐えてくれてありがとうね。あ、私ちょっと開店準備があるからガレージ寄ってからお店に行くね!」
ソファから降りたみどりはほっと胸を撫で下ろすと、トコトコと階段を降りて1階へ向かった。
茂は「ええ、いってらっしゃい……」と生返事をしながら、青ざめた顔でハッと目を見開いた。
(ちょっと待て……1階はみどりさんの『花屋』の店舗とガレージだ……! 新鮮な観葉植物や切り花が山ほどある……っ! 草食の翠さんにとって、あそこは底なしのバイキング会場だぞ……っ!!)
売り物の売り花を食べ尽くされたら、みどりさんの商売も夫婦関係も一瞬で終わる!
茂は猛烈な焦りで階段を駆け降り、1階の店舗とガレージへと続く廊下へ飛び出した。
そして、ガレージへと続く防音ドアの前まで差し掛かった時、茂の目が跳ね上がった。
店舗へ通じるドアの手前で、鮮やかな緑色の大きな物体が、売り場の観葉植物を目指してのんびりと這い進んでいたのである!
(翠さんっ……!! やっぱり花屋の方を狙ってたのか……っ!!)
「ダメです翠さん、売り物は食べちゃダメ――」
茂が抱きかかえようと静かに手を伸ばした、まさにその瞬間。
カチャリ。
すぐ隣にあるガレージのドアノブが、内側からゆっくりと回った。
(ひっ……!?)
ガレージの中にいたのは、蓮くんに仲直りのおやつをあげてから店舗に出ようとしていたみどりだ。ドアが開けば、目の前にいる翠さんと確実に鉢合わせる!
(終わる……今度こそ僕の人生が終わる……ッ!!)
ガチャリとドアが開くコンマ一秒前。
茂は野生の勘だけで身体を弾けさせると、床の上をアザラシのようにスライディングした。
「うおぉぉぉぉっっ!!」
ズサーーーッ!と豪快な音を立てて床を滑り込み、両腕で翠さんを胸元に抱え込むと、そのまま背中を丸めて床にひれ伏すように覆いかぶさった!
ちょうどそのタイミングで、ガレージのドアが開いた。
「きゃっ!? し、茂くん!?」
ドアから出てきたみどりは、足元で汗だくになり、息を荒らしてダンゴムシのように丸まっている茂を見て絶句した。
「な、なにやってるの!? ガレージの前でスライディングなんてして……!」
茂はお腹の下に抱え込んだ翠さんが見えないよう、必死に背中を丸めて床に密着しながら、顔だけを上げて引きつった笑みを浮かべた。
「あ、いや! みどりさん! 実は……さっきのクモの仲間の『巨大な害虫』がこっちに逃げるのが見えまして……っ! みどりさんとお店のお花を守ろうと駆けつけたんです……っ!」
「えっ……害虫……?」
みどりは必死すぎる茂の顔を見下ろしながら、ふと嫌な予感が頭をよぎった。
(ちょっと待って……茂くん、どうしてガレージの直前でこんな必死に体を張ってるの……? まさか……ガレージの中にいる『蓮くんの気配』に気づいて、確かめようとしたんじゃ……!?)
みどりの顔からスーッと血の気が引いていく。
(やばいやばいやばい……! 茂くん、害虫退治のフリをしてガレージの秘密を探ろうとしてるんだ……! ネコ嫌いの茂くんに蓮くんの存在がバレたら、『嘘をつかれて隠れてネコを飼われていた』って絶望されちゃう……っ!!)
一刻も早く、茂の視線をこのドアから遠ざけなければならない!
「わ、わかったわ茂くん! 害虫は危ないから、とにかく早くここから離れましょうっ!!」
みどりは茂の前にしゃがみ込むと、その両腕をガシッと掴み、まるで重い荷物を運ぶかのように必死の形相でグイグイと2階へ続く階段側へと引っ張り始めた。
「えっ!? あ、みどりさんっ!? 引っ張らなくても僕歩けま――」
「ダメダメ! ほらほら、早く早く!!」
(よし……! この体勢ならお腹の翠さんは完全にみどりさんの死角だ……っ! だけど引きずられる衝撃で落としたら終わる……っ!!)
茂は必死にお腹に力を入れ、つぶさないよう、かつ滑り落ちないよう絶妙な空間をキープしながら、ズリズリと床を滑って奥へ進んでいく。
みどりは茂のお腹の下に何かが抱え込まれていることなど露知らず、「蓮くんを守らなきゃ!」の一心で茂を正面から全力で引っ張り、そのまま曲がり角まで強引に引きずっていった。
「ふぅ……! ここまで来れば大丈夫よ、茂くん!」
みどりが手を放した瞬間、茂は「はぁぁぁぁぁっっ……!!」と死に物狂いで溜め込んでいた空気を吐き出した。
胸元からは、冷たい鱗の感触と「ふしゅー」という呑気な鼻息が伝わってくる。
「……頼みますよ、翠さん……。僕の寿命が縮むどころか消失します……」
一方、みどりは胸を押さえてガタガタと震えていた。
(危なかった……っ! 茂くんに蓮くんの存在が勘づかれかけてる……! これ以上怪しまれないために、もっと完璧に隠さなきゃ……っ!!)
お互いが自分の「秘密のペット」を守るため、夫婦のすれ違いはさらに深い沼へとハマっていくのだった。
(※注意:床に平伏した夫を正面から引きずり回すと、お腹の下のイグアナは奇跡的に見つかりません)
【第25話・おわり】




