第24話『ごちそうとオンエア』
猫カフェ訪問から数日後。リビングの空気には、相変わらずどこか奇妙な重苦しさが漂っていた。
原因は、キッチンで静かに溜め息をつくみどりだった。
(はぁ……昨日は全身をボディーソープで3回も洗って、服も全部洗濯したのに……今日の朝も蓮くん、プイッてそっぽ向いてご飯食べてくれなかったな……)
愛猫からの冷ややかな「浮気冤罪」が未だに解除されず、みどりの心は土砂降りの雨模様だった。
だが、そんなみどりの沈んだ横顔を、リビングの端から痛々しい表情で見つめる男がいた。茂である。
(……間違いない。みどりさんは『猫ロス』に陥っている……っ!)
茂の脳内では、最悪の誤解が完璧なロジックとして完成していた。
(僕に気を使って猫カフェにまで付き合ってくれたものの、本物のネコちゃんと触れ合ったことで、かえって『家でネコと暮らせない寂しさ』が爆発してしまったんだ……。なんてことだ……すべては僕の不甲斐なさのせいだ……っ!)
自責の念に押し潰されそうになりながらも、茂は拳を握りしめた。
(今日こそ、みどりさんを元気づけなければ……!幸いにも、今夜はあのネコ特集番組の放送日だ……!)
「み、みどりさん!」
茂は意を決して、キッチンの背中に声をかけた。
「えっ? は、はい! 何かな、茂くん?」
「今夜の番組のオンエア……僕が夕食に特別なごちそうを作りますから! 一緒に食べながら見ませんか!?」
「ええっ!? ご、ごちそう……っ!?」
みどりは驚きで目を丸くした。
(茂くん……私がネコカフェのあと元気がないのを気にして、元気を出してもらおうとごちそうを作ろうとしてくれてるの……!? 茂くんが無理してネコ嫌いを克服しようとしてくれたのに、私はガレージで『蓮くんお願い許して〜!』って匂い消しに必死になってるなんて……口が裂けても言えない……っ!)
「し、茂くん! そんなの申し訳ないよ、私が作るよ!?」
「いいえ! 今日は僕に作らせてください! みどりさんには、僕の作った料理を食べながら、自分の協力が形になった瞬間を笑顔で見てほしいんです!」
まっすぐすぎる茂の瞳と優しさに、みどりの胸がキュンと締め付けられる。
「……うん。ありがとう、茂くん。楽しみに待ってるね……!」
◇
その日の夜、我が家のダイニングテーブルには、茂が腕によりをかけた豪華な料理がずらりと並んでいた。
香ばしい匂いを立てるハンバーグに、色鮮やかなシーザーサラダ、そして温かいスープ。
「すごーい! 茂くん、料理もこんなに上手だったんだね!」
「いえ、みどりさんに喜んでいただければと思いまして……。さあ、ちょうど時間です。つけますね」
茂がリモコンのボタンを押すと、大型テレビの画面が切り替わり、人気動物番組の『驚きのネコ生態特集』がスタートした。
番組は順調に進行し、いよいよ茂が執筆したミニドラマのコーナーへと差し掛かる。
画面の中の役者が、テーブルの上のコップにそっと手をかける。
『あ、あの顔……! 見てください、イチイチこっちの顔を伺いながら落とそうとしています! つんつん……チラッ、つんつん……チラッ、『落ちるよ? 落ちるよ?』って顔です!』
完璧な間とナレーションで再現された「つんつんチラ」の映像に、みどりは思わず「ふふっ……あはははっ!」と声を上げて爆笑した。
「すごい! 茂くん、本当にすごいよ! 私が話した通りの動きになってる!」
さらに、画面ではコップを落とした瞬間に脱兎の如くダッシュで逃走するネコの心理分析がシュールなアニメーションで描かれ、スタジオのタレントたちも大爆笑していた。
「見て茂くん! 『猫は液体』の検証コーナーもやってるよ! ほら、金魚鉢に吸い込まれるみたいに入っていくの、可愛い〜っ!」
「はい、みどりさんの教えてくれたディープな知識が、そのまま企画の目玉になったんです」
興奮が最高潮に達してみどりは、「茂くんって本当に天才脚本家だね!」と、思わず茂のポロシャツの袖をキュッと強く掴んだ。
(ひっ……!?)
茂の心臓が、跳ね上がった。
腕に触れる、みどりの指先の小さな圧力。すぐ隣から漂う、ハーブの優しい香り。そして何より、弾けるような飛びっきりの笑顔――。
(ああ……良かった……。みどりさんが……笑ってくれた……っ!)
茂の胸の奥が、温かい何かで満たされていく。自分の惨めな置物化も、極限の恐怖も、この笑顔を見られたならすべて報われたと思えた。
茂は胸を撫で下ろし、繋がれた袖の感触を噛み締めながら、優しく微笑んだ。
「みどりさんが笑ってくれて、本当に良かったです。僕、頑張ってネコちゃんの勉強をした甲斐がありました」
「茂くん……」
みどりは、自分のために泥臭く努力し、こうして最高のごちそうと時間をプレゼントしてくれた夫の横顔を見つめた。
(私ったら、蓮ちゃんに嫌われたショックで暗くなって、茂くんに余計な心配をかけちゃってたんだな……。茂くんはこんなに私のことを大切にしてくれているのに……)
「ありがとう、茂くん。私、世界一幸せな奥さんかも」
「えっ!? あ、あの……そんな、僕なんて……っ!」
唐突なストレートな言葉に、茂は顔を真っ赤にしてパニックになり、スープの器をひっくり返しそうになった。そんな茂の照れ隠しの仕草を見て、みどりは再びくすりと笑った。
(うん、明日もう一度、蓮くんに最高のおやつを持って謝りに行こう。茂くんのこの優しさを、絶対に無駄にしちゃダメだよね)
二人の間のわだかまりは溶け去り、リビングにはこれまでにない甘く温かな空気が満ちていた。
お互いを想い合うがゆえの勘違いは、また一つ、二人の絆を強く結び直したのだ。
◇
二人がリビングで幸せな余韻に浸りながらデザートのプリンを食べていた、まさにその頃。
階段を上がった先、3階の暗い書斎。
茂が帰宅直後に翠さんを戻し、安心感から少し雑に閉めてしまった大型温室ケージの扉。
カチャリ、と小さな音が響いた。
金属のラッチが完全に噛み合っていなかったケージの扉が、内側からの圧力によって、スーッと数センチだけ隙間を開けたのだった。
闇の中で、鮮やかな緑色の長い尻尾が、ゆっくりと揺れた。
【第24話・おわり】




