第23話『癒やしと浮気』
猫カフェでの「ブッダ体験」という壮絶な試練を乗り越え、命からがら帰宅した二人。
玄関でお互いに「今日は本当にありがとう(ございました)」とぎこちなく感謝を伝え合うと、茂は精神的な限界から、みどりは愛猫への申し訳なさから、それぞれ自室へと逃げ込むように散っていった。
◇
3階、茂の書斎。
「……はぁぁぁぁぁ……っ、生き延びたぁぁぁ……っ!!」
ドアを固く閉ざした瞬間、茂はその場に膝から崩れ落ちた。
脳裏に焼き付いて離れない、あの大量のネコたちの力強い目線。膝や肩に乗っかってきた、生々しい毛並みの温もりとズッシリとした重み――。
(温かかった……柔らかかった……。そして何より、恐ろしかった……っ! 猫カフェとは、僕にとってまさに現世に現れた地獄そのもの……ッ!!)
未だに指先が微かに震えている。このままではネコたちの幻影に精神を苛まれ、今夜はまともに眠ることすらできないだろう。
極限状態の茂の救世主となり得る存在は、この世にただ一人(一匹)しかいなかった。
茂はフラつく足取りで部屋の奥にある大型温室ケージへと向かい、鍵を解除した。
「……翠さん、僕を……僕を救ってください……ッ」
ケージの中から恭しく抱き上げたのは、鮮やかな緑色の鱗に包まれた愛妻と同名のグリーンイグアナ――翠さんだった。
茂は畳の上に勢いよく仰向けに寝転がると、翠さんを自分の胸の上にどっかと乗せた。さらには、その冷たく滑らかなアゴの下に自分の顔を滑り込ませる。
「あぁぁぁぁ……っ! このひんやりとした冷たさ……ッ! ずっしりと心地よい重たさ……ッ! そして何より、一切媚びを売らずに僕を完全無視する、このドライな存在感……ッ! 癒やされるぅぅぅ……っ!!」
ネコの「ふわふわして温かい」の対極にある、「ザラザラして冷たい」という爬虫類特有の質感が、茂の過熱した脳味噌を急速に冷却していく。
胸に乗った翠さんは、茂の顔面の上で「ふしゅー」と一つ鼻息を吐くと、特に嫌がる様子もなく、ただじっと置物のように動かなくなった。
(ああ……生き返る……。やっぱり僕には、翠さんしかいない……。みどりさんの笑顔を守るための戦いはこれからも続くけれど、こうして翠さんに冷やしてもらえれば、僕はいくらでも戦える……っ!)
茂は感涙にむせびながら、胸の上の冷たい重みに深く深く癒やされるのだった。
◇
一方その頃、1階ガレージ奥の隠し部屋。
「蓮くん〜! ただいま〜っ! ごめんね、お留守番ありがと――」
みどりは防音ドアを静かに閉め、愛猫の蓮くんに駆け寄ろうとした。
しかし、キャットタワーのクッションで丸くなっていた黒猫の蓮くんは、みどりが近づいた瞬間にピクッと耳を澄ませ、鼻をひくひくと蠢かせた。
(……ニャ?)
蓮くんはゆっくりと立ち上がると、みどりに向かってトコトコと歩み寄ってきた。
「ふふ、蓮くんったら、寂しかったの? よーしよーし、抱っこ――」
みどりが満面の笑みで両手を伸ばした、次の瞬間。
「フシューーーッッ!!」
蓮くんは身をくねらせてみどりの手を回避すると、毛を逆立てて後ずさりした。
「えっ……れ、蓮くん……!?」
蓮くんは、みどりの服にしみついた「自分以外の大量のネコ(それもキャットカフェの猛者たち)」の匂いを即座に察知したのだ。
その瞳は、まるで「お前、僕というものがありながら他の男と密会してきたのか」とでも言いたげな、冷酷で蔑むような光を宿していた。
「ち、違うの! 蓮くん! これは浮気じゃないの……っ! 茂くんのネコ嫌いを克服するために、ちょっと付き添いで猫カフェに行っただけで……っ!」
必死に弁明するみどりに対し、蓮くんは「フンッ」とあからさまに鼻を鳴らすと、くるりと背を向けた。
そして、キャットタワーの最上階へと飛び乗り、みどりに完全に背を向けた状態で丸くなってしまったのだ。チラリと振り返るその目線は、氷点下よりも冷たい。
「嘘でしょ……っ!? 蓮くん、聞いて! 私が愛してるのは蓮くんだけなの! 信じて! 本当に浮気なんてしてないの〜〜っっ!?」
みどりはキャットタワーの下で膝をつき、涙目で必死に手を振ったが、蓮くんは二度とこちらを振り返ろうとはしなかった。
(どうしよう……蓮くに嫌われちゃった……! 茂くんを助けようとした結果、最愛の蓮くんから浮気冤罪をかけられるなんて……っ!)
◇
その夜の夕食時。
ダイニングテーブルについた二人の空気は、昼間とはまた違った意味で異様なものとなっていた。
茂は、3階で翠さんにたっぷり冷やしてもらったおかげで、どこか憑き物が落ちたようなスッキリとした爽やかな表情を浮かべている。
(翠さんのおかげで完全に持ち直したぞ。明日からもみどりさんのために頑張ろう)
一方のみどりは、蓮くんからの冷絶な対応にショックを受け、箸を握りしめたまま魂が抜けたような顔をしていた。
(蓮くん……私の匂い、綺麗に洗い流したら許してくれるかな……。でも、もしまた茂くんとネコの話になったら、蓮くんの存在がバレちゃうかも……)
「みどりさん? どうかしましたか? お顔が少し青いですが……」
茂が心配そうに覗き込むと、みどりはビクッと肩を跳ね上げた。
「えっ!? あ、ううん! なんでもないの! ちょっと……そう、今日はいろんなネコちゃんと触れ合って、胸がいっぱいになっちゃって!」
「……そうですか。みどりさんが楽しんでくださったのなら、僕も頑張った甲斐がありました」
茂は優しく微笑んだ。
(みどりさん……やっぱりネコが大好きなんだな。あんなに胸がいっぱいになるほど喜んでくれるなんて……。僕ももっと耐性をつけないと)
(茂くん……私があんなにネコカフェでハッスルしちゃったから、申し訳なさで胸がいっぱいなんだと思ってくれてる……。本当は愛猫に絶交されて泣きそうなんて、口が裂けても言えない……っ!)
お互いがお互いの様子を絶妙に誤解しながら、夜は更けていく。
3階ではイグアナの冷たさに救われ、1階では猫の冷たさに打ちひしがれる。
それぞれの部屋に抱えた「秘密のペット」は、今夜も二人を翻弄し続けるのだった。
(※注意:他店のネコの匂いを身にまとって帰宅することは、愛猫に対する最大級の背信行為となります)
【第23話・おわり】




