第22話『夫の地獄と猫の楽園』
「……えっ!? 本当ですか……っ!?」
翌朝、リビングで受話器を握りしめた茂の口から、驚きと歓喜の声が漏れた。
電話の主は、番組プロデューサーだった。
『茂さん! 昨日提出してもらったネコ特集の企画構成とミニドラマのプロット、局内で大絶賛ですよ! 特に『落ちるよ? 落ちるよ?顔』のくだりや、落とした瞬間に逃走する心理分析のシーンなんて『リアルすぎて爆笑した』って役員陣にも大ウケでしてね!』
「あ、ありがとうございます……! ですが、僕の力というよりは、全面的に協力してくれた妻のおかげなんです」
『素晴らしい奥様ですね! ぜひそのままの勢いで脚本本編もよろしくお願いします!』
電話を切った茂は、キッチンでハーブティーを淹れていたみどりに深く頭を下げた。
「みどりさん……プロデューサーさんから連絡がありまして、企画が大絶賛だったそうです。本当に、みどりさんのおかげです。ありがとうございました……っ!」
「本当!? 良かったぁぁぁ!! 茂くんの脚本の面白さが伝わったんだね!」
エプロン姿のみどりは、パッと顔を輝かせて飛び跳ねるように喜んだ。
(ああ……なんて素敵な笑顔なんだ……)
みどりの弾けるような笑顔を見つめながら、茂の胸の奥で、カチリと熱い決意のスイッチが入った。
(みどりさんはこんなにもネコが好きで、僕の仕事のためにあそこまでの愛と情熱を注いでくれた……。それなのに僕は、自分のくだらないトラウマのせいで、みどりさんから『ネコと暮らす幸せ』を奪っている……! このままじゃダメだ。夫として、男として……僕がネコ嫌いを克服してみせる……っ!)
茂は意を決し、両拳を強く握りしめて提案した。
「みどりさん! 今週末……一緒に、猫カフェに行きませんか!?」
「ええっっ!? ね、猫カフェ……っ!?」
みどりは目を見開いて絶句した。
(嘘でしょ……っ!? 茂くん、昨日の打ち合わせで私のネコ愛に圧倒されて、無理してネコ嫌いを克服しようとしてる……!? 私のせいで茂くんにそんな拷問みたいなことさせるなんて……っ!)
「し、茂くん、無理しなくていいんだよ!? 茂くんがネコちゃん苦手なのは知ってるし――」
「いいえ! 僕が行きたいんです! みどりさんと一緒に、ネコちゃんの魅力を学びたいんです!」
真っ直ぐで真剣すぎる茂の瞳に押し切られ、みどりは「……う、うん。茂くんがそこまで言うなら……」と、緊張の面持ちで頷くのだった。
◇
週末。都内にある評判の猫カフェ『にゃんこサロニカ』。
木目調の温かみのある店内には、キャットタワーやハンモックが配置され、十数匹の可愛らしいネコたちが思い思いにくつろいでいた。
だが、入り口から入ってきた二人組の片方は、くつろぎとは程遠い状態にあった。
(ひ、ひぇぇぇぇぇぇっっっ……!!??)
茂は店内に足を踏み入れた瞬間から、全身の筋肉が鋼のように硬直していた。
四方八方に蠢くしなやかな毛玉たち。そして、時折こちらに向けられる、威嚇と見紛うばかりの力強い目線――。
幼少期のトラウマがフラッシュバックし、茂の脳内アラートが鳴り響く。
「茂くん……大丈夫? 顔色が土気色だよ……?」
「ダ、ダイジョウブデス……。僕ハ、至ッテ平常心デス……」
引きつった笑顔を浮かべた茂は、ロボットのようなギコチナイ歩調で店の最果てにある壁際のソファへと向かい、浅く腰掛けた。
ここなら後ろを取られる心配はない。茂は膝の上にしっかりと拳を置き、背筋をピンと伸ばし、視線を一点に固定した。
呼吸すら殺し、完全に微動だにしない――『人間の置物』の完成である。
(動くな……動いたら襲われる……。目を合わせるな……視線を切るんだ……。僕は木……僕は石……僕はリビングのインテリア……)
茂が恐怖のあまり魂を極限まで減圧し、無の境界に達した、その時だった。
(ニャ?)
フロアの真ん中で毛繕いをしていた長毛種のメインクーンが、ふと茂の方を振り返った。
ネコという生き物は、自分を執拗に追いかけてくる人間や、大声を出して構ってくる人間を嫌う。逆に、目を合わせず、静かで、自分に干渉してこない存在を「安全な縄張り」として認識する習性がある。
まさに今の茂は、ネコにとって『世界で最も魅惑的で安全な超高級キャットタワー』そのものだったのだ。
トコトコと歩み寄ってきたメインクーンが、茂の膝の上に「よっこいしょ」と飛び乗った。
(ひぐっ……!?)
茂の全身に激痛のような緊張が走る。重い。温かい。そして何より、毛並み越しに感じる生々しい獣の脈動……!
だが、地獄はそこから始まった。
『あ、あいつずるいニャ』と言わんばかりに、別のスコティッシュフォールドが茂の空いた膝のスペースへ割り込んでくる。さらに、肩にはアメリカンショートヘアが駆け登り、足元には三毛猫とロシアンブルーが我先にともみくちゃになりながら群がってきた。
あっという間に、茂の全身はネコで埋め尽くされたのである。
「す、すごーいっ!!」
カフェの店員が目を丸くして駆け寄ってきた。
「お客様、素晴らしいです……! うちの子たち、普段は初対面のお客様には結構クールなんですけど……こんなに『我先に』って群がるなんて初めて見ました! お客様の深いネコ愛が、この子たちにも伝わってるんですね!」
(違っ……! 伝わってない……! 僕は愛じゃなくて恐怖で固まってるだけだ……っ! 助けて……誰か助けて……っ!!)
叫びたくても喉が引きつって声が出ない。
周囲の他のお客さんたちも、ネコを一身に引き寄せる茂の姿にざわつき始めた。
「すごーい、あの人ネコ使いかな……?」
「全種類乗ってない……? ブッダみたいな神々しさある……涅槃図かな?」
さらには、近くを通りかかった小さな男の子が、茂の顔をまじまじと見つめた後、母親の服の裾を引っ張った。
「ママ〜、見てアレ! あの大人、置物? 全然動かないよ?」
「これ、こらっ! シッ、見ちゃダメでしょ!」
(置物じゃない……! 生きている……僕は辛うじて生きて……いや、失神寸前だ……っ!! 息が……胸の上に乗っているメインクーンの重量で、息が吸えない……っ!!)
白目を剥きかけ、いよいよ精神が崩壊しかけたその時――。
「――そこまでです!!」
みどりがサッと割り込み、茂の上に群がるネコたちに優しく声をかけた。
「みんな、ごめんね? ちょっと茂くんをお借りするね〜」
みどりは手際よく、しかし決してネコたちを嫌がらせない絶妙な身ごなしで、ネコたちを一人(一匹)ずつ撫でながらソファから誘導していった。
解放された茂は、そのままソファの背もたれに崩れ落ち、「はぁぁぁぁぁっっ……!!」と猛烈な勢いで空気を吸い込んだ。
「茂くん! 大丈夫!? 息して! 深呼吸して!」
みどりは茂の隣に腰掛け、両手で茂の震える右手をしっかりと包み込んだ。
「ごめんね……っ! 私のために、こんな無茶なことさせて……! 茂くんが私に気を使って、ネコ嫌いを克服しようとしてくれたの、すごく嬉しかった……。でもね、茂くんがこんなに苦しむくらいなら、私は猫カフェなんて来なくていいの!」
「み、みどりさん……」
みどりの瞳には、申し訳なさと、茂への溢れんばかりの愛おしさが涙となって浮かんでいた。
茂は、自分を案じて震えるみどりの手の温もりを感じながら、胸が締め付けられるような愛おしさを覚えた。
(ああ……僕は、この人を笑顔にしたかったんだ……。情けない姿を見せてしまったけれど……みどりさんは、こんな僕の拙い優しさを受け止めてくれている……)
茂は、ゆっくりと呼吸を整えると、自分の手を包んでくれているみどりの手に、もう片方の手をそっと重ねた。
「……すみません、みどりさん。カッコいいところを見せるつもりが、ただの置物になってしまいました……」
「ううん……! 置物な茂くんも、すごくカッコよかったよ……っ!」
「ふふ、なんですかそれ」
お互いに顔を見合わせ、くすりと笑い合う。
ネコたちがまどろむカフェの片隅で、繋がれた二人の手と手。お互いを想い合うがゆえの空回りは、いつの間にか二人の心の距離を、これまでになくギュッと近づけていたのだった。
(※注意:ネコは『本気で恐怖して固まっている人間』を、最高の癒しスポットとして認識します)
【第22話・おわり】




