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第19話『アルコールと呼び捨ての臨界点』

「呼び捨てで呼び合いましょう」という歴史的協定が締結されてから、早三日。

二人の距離は、縮まるどころか劇的に離れていた。

「み、み……(言えず、無言で麦茶のポットを差し出す)」

「あ、ありがとう……し、し……(照れて目を逸らし、逃げるように洗面所へ行く)」

あの日、食卓でお互いの語尾に「ぃ」「ぅ」を残したまま自爆したダメージは想像以上に大きかった。一度「呼び捨てにする」と決めてしまったがために、お互いの存在を強烈に意識しすぎてしまい、まともに目を合わせることすらできなくなってしまったのだ。

(あ、ダメだ……! このままじゃ『呼び捨て』どころか、会話すら成立しない冷え切った家庭になってしまう……っ!!)

自室で頭を抱えた茂は、恐ろしいほどの危機感に打ち震えていた。しらふの自分では、照れとチキン心が邪魔をして「みどり」のたった三文字が口から出てこない。

(しらふで無理なら……お酒の力を借りるしかない……! アルコールで脳の照れブレーキを一時的に解除するんだ……っ!)

実は、階下のみどりも全く同じ限界を迎えていた。

「このままじゃ茂くんと気まずいままになっちゃう……! 今日こそお酒の勢いに乗って『茂』って呼ぶんだから……!」

こうして二人は、「久しぶりに二人で居酒屋に飲みに行きませんか」という名目のもと、裏で「アルコールによる呼び捨て力向上作戦」を決行することとなった。

◇

夕方。出かける準備を終えた茂は、3階の自室で飼っているイグアナの翠(みどり)さんのケージの前にしゃがみ込んでいた。

「翠さん……今日はちょっと帰りが遅くなるよ」

茂はトレイに新鮮な小松菜を並べながら、重々しい口調で語りかけた。翠さんはノシノシと重厚な足取りで近づくと、小松菜を一口モシャリと噛み砕く。

「……笑ってくれ、翠さん。たった三文字の名前を呼ぶこともできず、酒の力を借りようとしている情けない僕を……。でもね、僕は本気なんだ。今夜こそ『みどり』と呼んで、夫としての階段を登ってみせる……!」

茂の熱い決意表明に対し、翠さんは半目で小松菜をモシャモシャと咀嚼し続け、パチリと一つまばたきをしただけだった。

一方、1階のガレージ奥にある「隠し部屋」では、みどりが茂に察知されないよう足音を殺して中に入り、猫の蓮くんの器にカリカリのフードを静かに注いでいた。

「蓮くん、ごめんね。今日はお夕飯あげたらすぐ出かけちゃうからね」

茂にバレないよう小声で語りかけると、蓮くんは「ニャ〜」と控えめな声で鳴き、みどりの足元にスリスリと体を寄せてくる。みどりは蓮くんを優しく撫でながら、ふふっと照れくさそうに微笑んだ。

「あのね、蓮くん。今日はね……茂くんを『茂』って呼ぶ練習をしに行くの。お酒をちょっとだけ飲んで、勇気を出してみるね。帰ってきたら、ちゃんと『茂って呼べたよ』って報告するからね」

蓮くんはフニャッとあくびをすると、カリカリを美味しそうに食べ始めた。みどりは隠し部屋のドアを慎重に閉め、鍵がかかっていることを確認して表へ出た。

◇

二人がやってきたのは、駅前にある少し賑やかな大衆居酒屋だった。

「とりあえず……生ビール二つで!」

注文を済ませ、運ばれてきたジョッキを掲げる。

「「乾杯……!」」

キンキンに冷えたビールを喉に流し込む。ぷはぁっと息を吐き出した茂の脳内で、作戦第一段階がスタートした。

(よし……アルコールが体内に回り始めたぞ。脳の照れ回路が少しずつ麻痺してきている感覚がある……! 今だ、焼き鳥が運ばれてきたこのタイミングで決める……!)

茂はジョッキをテーブルにトンと置き、キリッとした表情でみどりを見つめた。

(言え……言うんだ僕……!『みどり、何から食べる?』と……!)

「み……」

「え?」

「み……み、みどりぃ……(寸前でアルコールを凌駕する照れが襲いかかり)……さん!! 焼き鳥、タレと塩どっちが好きですかッ!?」

(出ない……っ! 言葉が口から出ない……っ! お酒を飲んでも『ぃ』が残る……っ!!)

茂が心の中で激しく血の涙を流していると、向かいのみどりの顔も真っ赤に熟し切っていた。すでに生ビールを半分以上空けているみどりは、トロンとした目で茂を見つめ返している。

「も〜……茂くんたら……! 私だって……私だって頑張ってるんだからね……!」

「えっ……!?」

みどりはジョッキを両手でギュッと握りしめると、意を決したように身を乗り出した。

「し……し……茂ぅ……(酔いと照れでろれつが回らず)……くんっ!! ビールおかわりしてもいいッ!?」

「僕たち全然成長してない……っ!!」

お酒の力を借りた結果、照れくささが麻痺するどころか**「照れくささが倍増してろれつが回らなくなる」**という最悪の化学反応を引き起こしていた。

「み、みどりぃ……! 串焼き冷めちゃうよ……!」

「茂ぅ……! ポテトフライも食べたい……!」

店内に響き渡る、お互いの語尾を伸ばし合う謎のコール&レスポンス。周りの客や店員からは「あのカップル、めちゃくちゃ仲良いな……」「バカップルだなあ」と温かい目で見られていることにも、二人は全く気づいていない。

(※注意:お酒の勢いで壁を乗り越えようとすると、単に照れが倍増して自爆するだけです)

結局、居酒屋を出る頃には二人ともベロベロに酔っ払い、お互いに「みどりぃ…」「茂ぅ…」とつぶやきながら、真っ赤な顔でぎゅっと手をつないで千鳥足で帰路につくのだった。

【第19話・おわり】

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