第18話『呼び捨て大作戦と探り合いの食卓』
あの「スメル大騒動」が無事に解決を迎えてからというもの、二人の間には以前にも増して穏やかで温かい空気が流れていた。
体臭を公害だと思い込んでいた茂の過剰な自責の念は、みどりの「好きだよ」というまっすぐな告白によって綺麗に溶かされた。そしてみどりもまた、自分の本当の気持ちを伝えられたことで、胸のつかえが取れたような晴れやかな心地でいた。
だが――茂の胸の内は、別の意味で穏やかではなかった。
(みどりさんに『好き』と言ってもらえたんだ。なら、僕ももっと男らしく頼れる夫になって、さらに二人で絆を深めていかなきゃいけない……! スメル騒動で散々心配をかけた挽回も含めて、夫としての器を見せるんだ……! そのためには……何が必要だ? そうだ、『みどり』と呼び捨てにすることだ! 長年連れ添ってきた『みどりさん』という敬称の壁を自ら打ち破り、呼び捨てにする……これこそが夫婦として次の一歩を踏み出す儀式……っ!)
茂は自室のドアをしっかり締め切ると、全身鏡の前に立った。ゴクリと唾を飲み込み、キリッとした表情を作って発声練習を開始する。
「みどり、お茶淹れたよ。……くっ、なんか上から目線っぽいか……? じゃあ、みどり、今日の服もすごく素敵だね。……ひぃっ!! キザすぎる!! 僕の口からそんな言葉が出てきたら気持ち悪がられるんじゃないか……!?」
自分のキザっぽさとハード順応の低さに耐えきれず、茂はベッドに勢いよく突伏して頭を抱えた。ただ名前を呼び捨てるだけなのに、エベレストを手ぶらで登るような途方もない壁を感じていた。
一方、その頃ベランダでお花の手入れをしていたみどりもまた、まったく同じ悩みに頭を抱えていた。
(あの件以来、茂くんが前より素直に気持ちを見せてくれるようになった気がする……! 本当に嬉しいな。もっと夫婦としてステップアップしたいな……そうだ、『茂』って呼び捨てにしてみようかな……!)
みどりは満開のハイビスカスの鉢植えにジョウロで水をやりながら、ポツリとつぶやいた。
「茂……。……うわっ、なんか呼び慣れなさすぎて心臓が跳ねた……! 茂ちゃん……? いやいや、ちゃん付けは余計にハードルが上がるかも……っ。茂……茂くん……茂……」
小声で何度も練習しているうちに、自分の声の甘やかし具合に恥ずかしくなり、みどりはジョウロを抱えたまま一人で顔を真っ赤にしてパタパタと手で顔をあおいだ。
理由はまったく同じ。二人とも、とにかく「もっと距離を縮めたい」のだ。
◇
情熱的な迷走を重ねた末、迎えたある日の夕食時。食卓には香ばしい甘辛い匂いを立てる特製生姜焼きと、お豆腐とわかめのあたたかい味噌汁が並んでいた。
いつも通りの平和で美味しそうな夕食風景のはずだったが、食卓を挟んで向かい合う二人の間には、どこか異様な緊張感が漂っていた。
(今日こそ……今日こそ『みどり』と呼ぶんだ……! 生姜焼きがおいしいと褒める、そのついでにさらっとごく自然に……!)
茂は心の中で固く拳を握りしめ、ロボットのようにガチガチの手つきで箸を動かしていた。肉を口に運んではいるものの、緊張のあまり生姜焼きの味などひとつも感じていない。
そんな茂の不自然すぎる硬直ぶりに気づきつつ、みどりはみどりで(いきなりぶっつけ本番で呼び捨てるのは私の心臓が持たない……! まずは外堀から埋めて探りを入れよう!)と妙案を思いついた。
みどりはコップのお茶をゆっくりとひとくち飲み、呼吸を整えてから、努めて平然を装って問いかけた。
「ねえ、茂くん」
「ひっ……!? は、はいっ! なんでしょうみどりさん! 今日の生姜焼き、タレの染み込み具合が完璧でめちゃくちゃ美味しいですっ!」
「あはは、そんなに肩肘張って驚かないでよ。……ねえ、そーいえばさ、茂くんのご両親って、お互いのことなんて呼び合ってるの?」
(な、なんだって……!? ご両親の呼び方……!?)
茂の過剰思考ギアがガタリと音を立てて高速回転を始める。
(なぜ急にそんなことを……!? そうか! みどりさんは僕たちの『呼び方』について意識し始めているんだ……! 僕がいつまでも『みどりさん』と堅苦しく呼んでいるから、もっと夫婦らしい親密な呼び方を提案しようとしてくれているのか……っ!?)
茂は背筋をピシッと伸ばし、大真面目な顔で答えた。
「ええと……僕が小さかった頃は『お父さん』『お母さん』って呼び合ってましたけど、僕と兄たちが大きくなってからは……父さんは母さんのこと『おい』って呼んでましたね。母さんは『あんた』です」
「お、おい……?」
みどりは箸を止めて、思わずポカンとした。
「はい。『おい、お茶』とか『おい、リモコン』とか……あ、たまに進化して『おい、あれ』の時もありました」
(『おい』は流石に夫婦のスキンシップとして参考にできないよ茂くん……!!)
みどりは心の中で豪快にズッコケつつも、ここで引き下がるわけにはいかないと、めげずに次の手を打った。
「そ、そうなんだ……! じゃあさ、新婚の頃とか、付き合ってた頃はどうだったのかな……? ほら、名前で呼び合ったりとか……呼び捨てとか……しなかったのかな?」
「呼び捨て」という単語が食卓の空間に響いた瞬間、茂の脳内でファンファーレが盛大に鳴り響いた。
(確信した……! みどりさんは僕に『呼び捨てにしてほしい』と完璧な誘導尋問を仕掛けているんだ……っ! ここで僕が意図を察して『じゃあ僕たちも呼び捨てにする?』と言えなければ、男が廃る……っ! 今こそ、あの鏡の前での猛特訓の成果を出す時……!!)
茂は喉をゴクリと鳴らし、覚悟を決めて勢いよく椅子から立ち上がった。
「み……」
「え?」
「み、みどりぃ……(寸前で恐怖と照れにより激しくチキって)……さんっ! 僕たちもっ! 呼び捨てで呼び合いませんかッ!!」
「……っ!?」
勢い余って立ち上がった茂の渾身の提案(&チキン語尾)に、みどりは目を丸くした。そして次の瞬間、みどりの顔が耳までみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
(し、茂くんから……呼び捨ての提案をしてくれた……!? 私と同じこと考えてたの……!?)
みどりも胸がいっぱいになり、食卓に両手をついて身を乗り出した。
「し、茂ぅ……(寸前で同じく激しくチキって)……くん……! うん、私も……そうしたかったの……!」
お互いに語尾に謎の「ぃ」「ぅ」を残したまま、食卓の空気は爆発的な照れくささに包まれた。
「あっ……えっと、じゃあ、みどり……ぃさん……」
「うん、茂……ぅくん……」
結局、提案は可決されたものの、二人とも真っ赤な顔のまま、恥ずかしさのあまりお互いの顔を見ることすらできなくなってしまうのだった。
(※注意:長年『〜さん』『〜くん』で呼び合ってきた二人が完璧な呼び捨てに慣れるには、もうしばらく莫大な時間がかかります)
こうして、距離を縮めたい二人の「呼び捨てチャレンジ」は、盛大な自爆と甘酸っぱいパニックとともに幕を開けたのだった。
【第18話・おわり】




