第17話『普通の生活と草原のそよ風』
「霞を食う」という悟りの境界線を越えかけた茂の前に、仁王立ちのみどりが立ちはだかったのは翌朝のことだった。
朝の光が差し込むリビングで、茂はぼんやりと空腹に耐えていた。水とわずかな塩分だけで身を清め、体内の毒素をすべて出し切る――そう信じ込んでいた茂の視界に、ドシンと重苦しい音が響く。
「茂くん。今から言うことをよく聞いて」
みどりは涙を浮かべながらも、その目はかつてないほど本気だった。茂の足元にドカンと置かれたのは、白いデジタル体重計。
「これ以上痩せて……私より体重が軽くなったら、即離婚だからね!!」
(り、離婚……っ!!??)
茂の脳内に激雷どころではない、全全全全全崩壊の衝撃が走った。
「わ、分かった……! 分かったからみどりさん、離婚だけは……離婚だけは勘弁してください……っ!!」
茂はガタガタと震える手で箸を握り、目の前に差し出された炊きたての白米と、湯気の立つ味噌汁を必死の思いで口に運んだ。一口食べるごとに涙がこぼれそうになる。
こうして、みどりさんの「離婚脅迫(※みどり目線:命の引き留め)」により、茂は奇跡的に普通の食事と普通の生活を取り戻すこととなったのである。
◇
数日後。
実家の両親も「よし、茂もご飯を食べるようになったな!」と胸を撫でおろし、両手に抱えきれないほどの食料を置いて安堵して去っていった。
部屋には、久しぶりに穏やかで静かな日常が戻っていた。茂は依然として無香料の石鹸を使い、おとなしく精進料理と肉料理を交互に食べる「普通の人間の生活」を送っている。心なしか肌の艶も戻り、頬のコケも収まっていた。
カラリと晴れた午後のこと。ベランダで洗濯物を干していたみどりが、風に揺れるシーツをかき分けて部屋に戻ってきた。パタパタと足を鳴らしながら、ソファーで静かに本を読んでいた茂の隣に、ふと腰掛ける。
「ねえ、茂くん」
「ひっ……はいっ! なんでしょうみどりさん! 僕、今日はちゃんと朝昼晩食べてます! 体重もキープしてますっ!」
茂は反射的に背筋をピンと伸ばし、教科書通りの返答をした。
「あはは、そんなに怯えないでよ」
みどりはクスクスと柔らかく笑うと、茂の肩にそっと頭を乗せた。髪からほのかに香る日の光の匂い。そして、深呼吸するようにくんくんと茂の首元に鼻を寄せ、匂いを嗅ぐ。
「茂くん、ずっと『自分の匂いが〜』って気に病んでたけどね……私、茂くんの匂い、すごく好きなんだよ?」
「え……?」
「なんていうか……お日様のあたった草原みたいな、すごく爽やかで優しい匂い。だから、変に気にしないでね」
みどりは満面の笑みで、茂の顔を覗き込んだ。
草……原……っ!?
予想外の言葉に、茂は思わず息をのんだ。これまで自分の体臭を「周りに被害を撒き散らす害悪」と決めつけ、必死に打ち消そうと苦しんでいた自分。けれど今、みどりの柔らかい体温と温もりが、肩越しにまっすぐ伝わってくる。
その言葉には、何の嘘も、繕いもなかった。
(そうか……みどりさんは、最初から僕の匂いを嫌がってなんか……なかったんだ……)
ずっと胸の奥を重く締め付けていた支えが、すーっと溶けていくような感覚がした。
自分がどれだけ空回りしていても、どんなに勘違いをしていても、この人はずっと変わらず自分を好きでいてくれたのだ。みどりさんが『好き』と言ってくれているなら……僕は余計なことを考えず、普通の生活を続けて、この人の隣にいよう。
茂は小さく温かい息を吐き出し、愛おしさを込めて、そっとみどりの頭を撫でた。窓から差し込むやわらかな光の中で、二人はしばらくそのまま静かに寄り添い続けた。
大騒動となったスメル問題はこうして幕を閉じ、二人の部屋には今日もお日様の匂いと、ほんの少しの「草原の風」が静かに吹き抜けていくのだった。
【第17話・おわり(※注意:スメル編完結! 二人は一歩前進しました)】




