第5章:凍てつく原盤 第35話:記憶の残響(200年前の真実)
視界が、青い光の渦の中に溶けていく。
氷の結界に閉じ込められたサクの意識は、肉体の感覚を失い、遠い過去の時間へと引きずり込まれていた。頭痛は消え去り、代わりに喉の奥を突くような強い「血の匂い」と、燃えさかる炎の熱気がサクの全存在を包み込む。
そこに広がっていたのは、凍土の神殿ではなかった。
天を突く大樹の根元に築かれた、古代の絢爛たる神殿の回廊。だが、その美しき石造りの柱は崩れ落ち、空からは赤黒い不吉な「灰」が雨のように降り注いでいた。地表からは黒い泥のような異形たちが次々と湧き出し、悲鳴を上げる人々を容赦なく呑み込んでいく。
「……これが……200年前の……『最初の崩壊』……?」
サクは声を出したつもりだったが、自分の声は届かない。サクの意識は、神殿の中央で血を流しながら佇む一人の少女の「視界」と重なっていた。
浅い地黒の肌、長い黒髪、そして背中に刻まれた水脈の刺青。
初代巫女イサナ。
「……もう、保たない……。世界の『記録』そのものが……人々の憎悪と絶望を吸い上げすぎて……破裂しようとしている……」
イサナの細く震える声が、胸の奥から直接響いてくる。
イサナの眼前に浮かんでいたのは、巨大な真珠色の光芒を放つ円盤の原盤だった。
だが、その原盤は決して世界を滅ぼすために作られた悪魔の遺物ではなかった。かつて暴走し、世界を呑み込もうとした古代の異形の狂気を抑え込み、人々の命と記憶を繋ぎ止めるために、イサナの血族が命を賭して組み上げた「世界の楔」だったのだ。
「イサナ様! 早くお逃げください! ここももう限界です!」
崩れ落ちる柱の隙間から、血塗れの鎧を纏った青年が駆け寄ってくる。
その青年の顔立ち、引き締まった目元にサクは息を呑んだ。それは、かつて水都の地下でサクたちのために命を散らした少女、カヤの面影を濃厚に残す、先祖の姿だった。
「……いいえ……逃げないわ……」
イサナは血に濡れた小さな手で、青年が差し伸べた手を静かに押し返した。その瞳から涙が溢れ落ち、真珠色の原盤の上に滴り落ちる。
「この歪みを……このまま解き放てば、世界は数年のうちに灰になる……。私が……この身を壊してでも……原盤の中に『狂気』を閉じ込める……」
「そんなことをすれば……イサナ様のご魂は……永遠に不協和音の渦の中で引き裂かれ続けるのですよ!?」
「構わない……! ただ……あなたたちの生きていく未来が……いつか訪れるなら……!」
イサナは自らの胸元へ短剣を突き立てた。
溢れ出る聖なる血が、真珠色の原盤を紅く染め上げる。
イサナは自らの命、記憶、そして魂のすべてを「鍵」として原盤の深部へ打ち込み、世界の破滅を凍結させた。
だが、あまりにも巨大な狂気を一人で引き受けた代償は、あまりにも残酷だった。
長き年月の果てに、原盤の中に閉じ込められた狂気と、イサナの切痛な情念は歪に癒合し、変質していった。
イサナの「世界を救いたい」「悲しみを消したい」という無垢な願いは、いつしか「すべての生命の感情と動きを凍結させ、永久の安らぎ(虚無)を与える」という怪異の狂気『原盤の意思』へと歪められてしまったのだ。
そして、封印の際に飛び散った原盤の欠片こそが……水都のカワであり、鋼嶺の鍛造炉であった。
『……分かったでしょう……サク……』
記憶のビジョンが途切れ、サクの意識は再び極北の『氷獄の回廊』へと戻ってきた。
結界の向こう側で、サムたちが必死に大剣を打ちつけ、サクを救い出そうと叫んでいる姿が見える。だが、その音は届かない。
台座の上に浮かぶ青い結晶の花が静かに揺れ、イサナの悲しげな幻影がサクの目の前に立ち現れた。
『この世界に散らばる不協和音は……私の罪……私の哀しみの残骸……。サク……イサナの血を引く者よ……。君のその右腕で……私を……この歪んだレコードを……永遠に壊して……』
サクの右腕の真珠鱗が、涙を流すように真珠色と蒼白色の光を激しく明滅させた。




