第5章:凍てつく原盤 第33話:凍解(とうかい)の誓い
音の消えた世界の中で、呼吸すらも凍りついていくようだった。
空から降り注ぐ紫と蒼の極光が、白銀の雪原を静寂の死へと誘っていた。風切り音は完全に止み、空中に舞う微細な雪の結晶すらも、落ちることを忘れたかのように空中へと固定されている。
サムの振り上げかけた腕。アキとマキの強張った表情。ツカが伸ばしかけた指先。
すべてが、透明な氷の檻に閉じ込められたかのように超低速の「停止」へと囚われていた。彼らの瞳から徐々に「生」の光が失われ、その命の運動そのものが、原盤の放つ虚無の波長によって削り取られていく。
「さ……む……っ……! みん……な……っ!」
サクの唇から、絶叫になり得ない掠れた吐息が漏れた。
四人の時間が止められていく中で、サク一人だけが動くことを許されていた。
いや、許されているのではない。右肩から胸元を覆う真珠色の「鱗」が、極光の波長と同調し、不気味に明滅しながらサクの体温を急速に奪い去り、肉体を氷の存在へと書き換え続けているからだ。
(逃げ場なんて……ない……)
頭蓋の奥底で、透明な声が反響する。
『憎むことも……悼むことも……すべては苦痛の源。音を止めなさい。レコードを閉じなさい。そうすれば……あの子も……君たちも……永遠の安らぎを得るのだから……』
脳髄を撫で回す甘美な麻痺。
痛みのない世界。カヤを奪われた夜の絶望も、右腕を苛み続ける異形化の恐怖も、このまま目を閉じ、冷たい極光に身を委ねてしまえば、すべては綺麗な静寂の中に溶けて消えていく——。
サクの真珠色の右目が、光を失いかけた。
だが。
寸前で「停止」させられそうになっていたサムの手が、最後の力を振り絞るようにして、ピクリと動いた。
分厚い皮手袋がサクの右腕の手甲を掴む力が、ほんの僅かに強まったのだ。
声は出ない。だが、固まりかけたサムの瞳は、サクをしっかりと射抜いていた。
『諦めるな』と。『怪物になるな』と。言葉を超えた命の叫びが、サムの瞳から熱となって伝わってきた。
アキとマキの、紫に変色した唇。
ツカの、激しい寒さに震えながらも最後まで弓を放とうとしていた指先。
(……そうだ……僕は……一人でここまで来たんじゃない……!)
サクの中で、凍りかけていた血液がパチりと小さな火花を散らした。
カヤを失った穴は埋まらない。だが、その穴を抱えたまま、共に死線を潜り抜けてきた仲間がここにいる。自分を人間として繋ぎ止めようと、命を懸けて手を伸ばしてくれる仲間たちがいるのだ。
「誰が……誰が眠るかッ!!」
サクは叫んだ。
無音の世界を切り裂く、命の咆哮。
サクは左手で右腕の真珠鱗を深く掴み、爪が肉に食い込むほど強く力を込めた。麻痺した痛覚を強引に呼び覚まし、右腕に溜め込まれた原盤と同調するエネルギーを、自らの「命の激熱」によって爆発的に反転させる!
ドォォォォォンッ!!
サクの右腕から放たれたのは、冷たい極光を打ち破る、鮮烈な「真珠色と漆黒の不協和音」だった。
衝撃波が白銀の雪原を円状に吹き飛ばし、空間を固定していた極光の檻に、クモの巣状の巨大な亀裂が走り抜ける。
パリンッ……! と、空間そのものが割れるような硬質で鮮やかな破砕音が響いた。
「ハぁぁぁぁぁぁっ……ゲホッ! ゲホッ……!」
静寂が破られ、激しい吹雪の暴風が一気に戻ってきた。
サムが膝をついて猛烈に雪を吐き出し、アキとマキ、ツカも激しく肩を上下させて倒れ込む。全員の身体から、急激に解凍されたかのように白い湯気が立ち上っていた。
「サ……ク……っ……! お前……っ!」
サムが荒い呼吸のまま、驚愕の面持ちでサクを見上げた。
サクの右腕の真珠鱗は、先ほどの爆発的な放電を経て、その表面に「氷の結晶」のような幾何学模様を不気味に浮かび上がらせていた。だが、サクの漆黒の左目には、力強い生気の炎が確かに燃え盛っている。
「……助けられたのは……僕の方だ、サム」
サクは激しい息吐きの中で、かすれながらもはっきりとした声を絞り出した。
「僕を……繋ぎ止めてくれて、ありがとう。……みんなを殺させやしない。あの原盤がどんな絶望を叩きつけてこようと……僕たちは全員で、生きて帰るんだ」
五人の少年たちの視線が、吹雪の中で再び固く交差した。
原盤が放つ「虚無の停止」を突破したことで、彼らの絆は、もはやどんな怪異の波長によっても引き裂くことのできない領域へと昇華していた。
「……前を見ろ」
ツカが弓を構え直し、かすむ吹雪の先を指差した。
極光のひび割れた隙間から、雪原の最奥に鎮座する巨大な「黒い影」が見え始めていた。
それは氷山そのものをくり抜いて造られた古の神殿の巨大な門柱だった。




