第5章:凍てつく原盤 第32話:白銀の境界
風が、刃のように音を立てて絶叫していた。
鋼嶺を遠く南方に去り、北上を続けること数日。五人が足を踏み入れたのは、地図の余白にただ「凍土」とだけ記された、生命の存在を徹底的に拒絶する領域だった。
視界のすべてを埋め尽くす白銀の世界。空と地の境目は、吹き荒れる猛吹雪によって完全に消滅し、猛烈な冷気が呼吸のたびに肺胞を焼き焦がす。踏みしめる雪の音すら、凍てついた静寂の中に乾いた砕けた音となって消えていった。
「……前が……見えねえ……ッ!」
先頭を行くサムが、大剣の鞘を杖代わりに深雪へ突き立てながら咆哮した。
彼らが纏っているのは、鋼嶺の廃墟からかき集めてきた重い獣皮の防寒具だった。だが、その防寒具すら、この極北の地を支配する絶対的な冷気の前には一枚の紙きれ同然だった。厚い毛皮の表面はすでに白く凍りつき、眉毛や睫毛には細かな氷晶が張り付いている。
「サム……! 列を崩すな! 離れたら二度と追いつけないぞ!」
ツカが後ろから叫び、アキとマキの肩を交互に叩いて意識を繋ぎ止めようとしていた。双子の兄弟は、極限の体温低下により唇を紫に変色させ、ただ機械的に脚を交互に前へ踏み出している状態だった。
そして最後尾を行くサクの周囲だけが、異様な「空気の歪み」を纏っていた。
「……ハァ……っ、ハァ……っ……」
サクの吐き出す息は、白い霧にはならなかった。
吐き出された瞬間に微細な結晶となって、空気中でチリチリと乾いた音を立てて散っていく。
手甲を外した右腕。肘から肩口、そして鎖骨のあたりまでを覆う真珠色の「鱗」は、いまや不吉な鈍銀色の斑点を不規則に散りばめ、周囲の極寒の空気と同調するように、冷たく透き通る蒼白色の光をぼんやりと放っていた。
激痛は、ない。
水都のような灼熱の熱量も、鋼嶺のような骨を打つ不快な衝撃もない。あるのは、脳の奥底から全身の神経へとじわじわと浸透していく、絶対的な「麻痺」と「無感」。
(……冷たい……。僕の身体の半分が……まるで氷の塊になっていくみたいだ……)
サクは左手で右腕を強く擦った。だが、自らの指先が右腕の表面に触れている感触すら、分厚い氷の板越しに撫でられているかのように不鮮明だった。
真珠色の右目の視界は、吹き荒れる白銀の惨劇の中に、幾重にも重なる「光の糸」を捉えていた。
それは空を渡るオーロラのように揺らめき、地表の底深くへと向かって収束している。水都の「生体・水」、鋼嶺の「無機・鋼」それらの元凶であり、この世界の記憶と運命を記録し続けてきた原点の存在が、この果てしない氷雪の深底で、静かに少年たちを呼び寄せていた。
「サク……っ!」
不意に、前を行くサムが立ち止まり、振り返ってサクの腕を強引に掴んだ。
分厚い皮手袋越しに伝わってくるサムの手の温もりが、サクの感覚の麻痺した皮膚を僅かに刺した。
「おい……お前、顔色が血の気を失ってるぞ! 右目……また侵食が広がってやがる!」
「……大丈夫だ、サム。歩ける」
「大丈夫なわけねえだろうが!!」
サムの怒号が吹雪の音を切り裂いた。
「鋼嶺を出てから、お前は一度も『寒い』と言ってねえ! 身体が凍りかけてるのに、痛みすら感じなくなってやがるんだぞ! これ以上右腕の力を使い続けたら……お前、本当に人間じゃなくなっちまうぞ!!」
サムの言葉に、アキ、マキ、ツカの三人も立ち止まり、吹き荒れる吹雪の中でサクを取り囲んだ。
彼らの瞳に宿っているのは、恐怖ではない。自分たちの目の前で、サクが少しずつ「人間ではない何か」へと変質していってしまうことへの、切痛なまでの拒絶と焦燥だった。
「……分かってるよ」
サクはかすれた声で呟き、静かに下を向いた。
「分かってる……。でも……ここで立ち止まったら、カヤの死も、僕たちが背負ってきた傷も……全部ただの無駄になる。僕が……この腕が怪物になろうと、あの原盤を叩き潰さなきゃ……僕たちの旅は終わらないんだ……!」
「サク……」
ツカがサクの肩に手を置こうとした、その時だった。
ヒュォォォォォォォッ……!!
突如、頭上の空を覆う雲が大きく引き裂かれ、夜でもないのに天空から禍々しい「紫と蒼のオーロラ」が地表に向かって降り注いだ。
極光が雪原を照らし出した瞬間、周囲の空間からあらゆる「音」が失われた。
吹雪の吹き荒れる風切り音も、自分たちの荒い呼吸音すらも、まるで世界全体が瞬時に氷漬けにされたかのように、完全に消滅したのだ。
「……な……に……!?」
サムが大剣を構えようとするが、その動きは超低速のコマ送りのように鈍化していた。
アキとマキの表情も、ツカの差し伸ばした手も、凍てつく空間の中で絶対的な「停止」へと囚われていく。
人々の記憶、感情、そして命の運動そのものを凍結させ、完全な「虚無」へと誘う極北の波動『原盤』の放つ第一波だった。
『……おいで……壊れた音符たちよ……』
無音の絶叫の中に、女性のようでもあり、透き通る幼子のようでもある、透明な声が脳髄に直接響き渡った。
『すべての痛みを……すべての悲しみを……この氷のレコードの中で……永遠に眠らせてあげよう……』
サクの右腕の真珠鱗が、オーロラの光と同調して爆発的な極光を放ち始めた。




