第4章:虚空の残響 第25話:鉄の鳴動
夜明け前の冷気が、見張り塔の崩れた隙間から滑り込み、火の消えた灰を小さく舞い上げた。
サクは一度も深く眠ることなく、ただひたすらに右腕の深部で打ち鳴らされる「予兆」と向き合っていた。
肘から肩口へと固着した真珠色の鱗は、昨夜から変わらず冷たく沈黙しているように見えて、その実、皮膚の裏側で針で刺すような微小な不快感を撒き散らし続けている。それは言葉にならぬ、だが明確な方向性を帯びた引っ張りだった。北…これから向かおうとしている旧鉱山地帯の方向へと、見えない糸で引き摺られているような感覚だ。
「……出発するぞ」
低く、地を這うようなサムの声が静寂を破った。
誰も何も言わず、各々の旅支度を整える。干し肉の残りを口に放り込み、水袋の重さを確かめ、濡れた布で刃の曇りを拭う。カヤを失ったあの日から、彼らの朝には余計な雑談も、互いを慰め合うような無駄な言葉も存在しなくなっていた。だが、その無言の手際の良さの中にこそ、死線を超えてきた者同士の密やかな絆が宿っている。
見張り塔を出て旧交易街道を北上するにつれ、周囲の景観は緩やかに、そして不気味に変貌を遂げていった。
豊かな森や土の匂いは影を潜め、道端には灰色の岩肌が剥き出しになった赤茶けた大地が広がり始める。植物の葉は瑞々しさを失って枯れ落ち、代わりに乾いた金属粉のような雑味が風に乗って鼻腔を刺した。
「……嫌な風だな」
ツカが弓の弦の張りを確かめながら、眉をひそめる。
「空気の重さが、水都の時とは違う。あそこは湿り切った密の匂いだったが……ここは、喉の奥が削られるみたいに乾いてやがる」
「ああ。それに、生き物の気配がさっぱりねえ」
サムが大剣の帯を締め直しつつ、街道の先を射抜くような鋭い視線で見据えた。
街道をさらに数里進んだところで、一行の前に現れたのは、打ち捨てられた幾台もの馬車の残骸だった。
荷台の木材は腐朽して崩れていたが、異常だったのはその車輪や鉄枠の部分だ。通常の錆とは異なり、不自然なまでに肥大化した黒ずんだ金属の腫瘍のようなものが、車輪から軸へと網目状に絡みつき、周囲の土壌へ根を伸ばすように固着していた。
「な……んだ、これ……?」
アキが短剣の柄で、車輪にこびりついた黒い金属芽を軽く突いた。
金属であるはずのそれは、カンカンという硬質な音を立てるのではなく、どこか鈍く肉厚な「コン、コン」という湿った音を返した。まるで鉱物と肉体が歪に融合したかのような異様な質感。
「触るな、アキ」
サクの声が低く制した。
サクの右腕——手袋の下の真珠色の鱗が、その金属芽に近づいた瞬間、鋭い痛みを伴って激しく疼いたのだ。
「……こいつは、ただの錆じゃない。水都で見た青い脈管と同じだ。別の形で……生きている」
「生きているって……鋼が、か?」
マキが息を呑み、左右の双子の兄と顔を見合わせる。
その時だった。
ゴオン………………。
遠く北方の山脈の方角から、低く重い「鐘の音」が響いてきた。
それは風に乗って届く街の長閑な時刻の知らせなどでは決してなかった。地鳴りのように大地を振動させ、骨の髄まで直接揺さぶるような、無機質で圧倒的な音圧。音が空気を渡るたびに、足元の乾いた土壌が細かく跳ね、車輪に絡みついていた黒い金属芽が、まるで音波に同調するかのようにカチ、カチと微小な金属音を立てて身震いした。
「ッ……!?」
サクは左手で突如激痛を発した右肩を強く押さえた。
頭蓋の裏側で、鐘の音が反響する。
カワの放っていた「甘美な絶望」が脳を狂わせる毒だったとするならば、この鳴り止まぬ鐘の音は、思考そのものを強引に停止させ、肉体をひとつの「物」へと書き換えていくような、冷酷無比な強制力を持っていた。
「く……っ……!」
「サク! 大丈夫か!?」
サムが即座に肩を支える。
「……聞こえるか、みんな……。この音の奥に……」
サクは歯を食いしばり、真珠色に澱んだ右目の視界を北方の断崖へと向けた。
「あの山の上……『鋼嶺』、何かある……!」
空を覆う雲が重く垂れ下がり、遠く霞む巨大な断崖絶壁の頂に、武骨な鋼の要塞都市の影がうっすらと浮かび上がっていた。
かつて世界屈指の鉱山都市として栄えたその場所は、いまや異様な金属の鳴動に包まれ、静かに五人の訪れを待っていた。




