第3章:蝕まれた世界 第18話:絶望のレコード
音が、消えた。
光も、重力も、息を吸うための空気すら存在しない闇。
サクの意識は、底知れぬ青い羊水の蠢く深淵へと急速に沈降していた。
右腕を通じてなだれ込んできたのは、途方もない量の「記憶」の濁流だった。
200年前、暗い神殿の奥底で絶叫しながら息絶えていった人々の苦悶。血を流しながら結界を組み、涙を拭って幼子を外界へ逃がした巫女イサナの痛切な祈り。そして、この水都の地下で、皮膚を真珠色の鱗に変えられ、正気を失いながら水を求めて狂死していった無数の感染者たちの慟哭。
それらは単なる幻想ではなく、カワという存在の肉体に刻み込まれた『絶望のレコード』そのものだった。
『苦しいだろう、サク?』
闇の深底から、どこまでも澄んだカワの声が響いてくる。
姿は見えない。しかし、カワの気息はサクの皮膚、肉、骨、そして精神の隙間という隙間に侵入し、優しく撫で回すように纏い付いていた。
『君が背負おうとしている憎悪も、カヤを失った絶望も、すべてはこのレコードに刻まれる一つの音符に過ぎないんだ。抗えば抗うほど、君の魂は深く削られ、より美しく、哀しい音を鳴らす……』
「……う、あ……っ……」
サクの唇から、言葉にならない掠れた吐息が漏れる。
脳髄が焼き切れるような感覚。自分という存在の境界線が溶解し、カワの広大な闇の中へ溶けて消えていきそうになる。
逃げたい。楽になりたい。
このまま青い水に身を任せて沈んでしまえば、右腕を苛む激痛も、カヤを死なせてしまった罪悪感も、すべて消え去るのではないか——甘美な誘惑が、沈みゆく意識を優しく包み込もうとする。
『そうだよ……身を任せればいい。君のご先祖様も、あの少女も、みんな最後は僕の歌を受け入れたんだから』
だが、そのまどろみの底で。
サクの脳裏に消え残っていた「熱」が、パチりと小さな火花を散らした。
(..........違う!)
冷たい水底で、カヤの最後の瞬間が鮮明にフラッシュバックする。
青い脈管に苛まれ、言葉すら奪われながらも、最期までサクたちを見つめていたあの瞳。絶望に屈したのではない。最後の最後まで、自分たちの仲間であり続けようと抗い抜いた一筋の意志。
(カヤは……お前の奴隷になんかなってない……!!)
サクの瞳の奥で、小さく、しかし決して消えることのない黒い炎が爆発的に燃え上がった。
「誰が……誰がお前の……『レコード』になんかなるかッ!!」
サクの咆哮が、闇の深淵を激しく震わせた。
結合していた右腕に全身の血流を流し込み、真珠色の鱗の侵食を、純粋な殺意のエネルギーへと強制転換する。サクは暗闇の中で右手に握り締め続けていたナイフを、自らの胸元へ.....
.....カワと繋がり合っている青い接合部へと深々と突き立てた!
グチャリ、と悍ましい肉音が響く。
『なっ……!?』
初めて、カワの声に動揺と狼狽の色が混じった。
自らの肉体を切り裂くことで、結合の回路を力任せに断ち切る狂行。サクの口から鮮血が吹き飛んだが、その瞬間に視界を覆っていた青い暗闇がひび割れ、まばゆい現実の光が亀裂から溢れ出した。
「うああああああああっっ!!」
サクは血飛沫とともに、巨大な肉の塊の表面から力任せに飛び出した。
ブチブチと青い脈管がちぎれ飛び、サクの身体は激しい水音を立てて地下空洞の水面へと落ちていく。
胸と右腕から血を流しながらも、サクは膝をつき、力強く石畳を掴んで立ち上がった。その瞳は、右目の半分が真珠色に変質しながらも、カワを喰い殺さんばかりの凄絶な殺気を放っている。
「……サク!!」
拘束する脈管を強引に引きちぎったサムが、血だらけのサクの姿を見て息を呑む。
アキ、マキ、ツカもまた、肉芽の檻を突破し、ボロボロになりながらもサクの背後へと集結した。誰一人として、その瞳から光は消えていなかった。
「あは……あははははっ!」
胸元から青い体液を撒き散らしながら、肉の塊の上でカワが髪を振り乱して狂笑する。
その完璧だった無垢な顔には、サクによって刻まれた傷跡と、剥き出しの執着が刻まれていた。
「最高だよサク! 自らの肉を削ってまで僕の侵食を跳ね返すなんて……! 君はどこまで僕を愉しませてくれるんだ!?」
「カワ……お前の終わりを……見届けてやる」
サクは血濡れたナイフをまっすぐに構えた。
五人の少年たちの刃が、いま再び、水都の深淵でひとつに重なり合おうとしていた。




