第3章:蝕まれた世界 第17話:青い深淵
天井を埋め尽くした青い体液の海が、重力に逆らうように蠢いていた。
ぽたり、ぽたりと落ちる雫の音すら、いまや頭蓋を直接叩く断頭台の靴音のように響く。空洞を満たす甘い蜜の匂いは飽和状態に達し、息を吸い込むたびに肺胞のすみずみまでカワの毒素が染み渡っていくようだった。
「ガはっ……ゲホッ……!」
水面に叩きつけられたサクは、濁った青い水を吐き出しながら、震える手で石畳の縁に縋りついた。
全身の関節が軋み、激痛を訴えている。だが、それ以上にサクを苛んでいたのは、右腕を覆う真珠色の「鱗」が発する異常な熱量だった。
侵食はすでに首筋のあたりまで脈打ちながら這い上がり、サクの視界の右半分を青く透き通る異様な色彩へと変え始めていた。右耳の奥で、ドクドクと不気味な脈動音が鳴り響く。それはカワの背後に佇むあの巨大な肉の塊の脈動と、完全に同調していた。
「サク……っ、逃げ……ろ……!」
壁際で足元を固い脈管に巻き付かれたサムが、血管を浮き出させて大剣を振るおうと抗っていた。だが、生き物のように太さを増す青い触手は、サムの腕や脚に食い込み、その圧倒的な質量で自由を奪っていく。
アキとマキもまた、水底から次々と生えてくる肉芽の格子の中に閉じ込められ、短剣を振るう隙すら与えられていなかった。水没した弓を求めて水面に手を伸ばしていたツカは、胸元まで青い羊水に浸かり、荒い呼吸を繰り返している。
「無駄だよ、みんな。抵抗すればするほど、君たちの体は『水』へと還っていく」
空中を揺らめくように漂うカワが、サクを見下ろして愛おしそうに目を細めた。
その身のこなしは、まるで満天の星空の下で舞踏を踊る幼子のように無邪気で、それ故に致命的なまでに残酷だった。
「ねえ、サク。知っているかい? 200年前、君のご先祖様……巫女イサナが何をしたのか」
「……黙れ……ッ」
「彼女はね、僕を封印したんじゃないんだよ。僕という存在があまりに巨大で、美しすぎたから……自分の血と、村人たちの命を全部捧げて、この世界から『隠した』だけなんだ」
カワの言葉とともに、天井の青い液塊が波打ち、水面に大きな影を落とした。
「彼女も知っていたんだ。人間というちっぽけな存在は、絶望の極限に達したとき、僕の『水』を飲んで永遠の安らぎを得るのだと。……カヤもそうだったろう? 僕と混ざり合う瞬間の彼女は、苦しみから解放されて、本当に幸せそうな顔をしていたよ」
「カヤの名前を……その汚い口で呼ぶな!!」
サクの叫びが、地下空洞の壁に跳ね返る。
サクは右腕の侵食を抑え込むのをやめた。抑えるのではない。右腕に満ちるカワの異質な力を、そのまま自らの激痛と殺意の燃料として暴走させたのだ。
手甲から腕、そして胸元へと真珠色の光が爆発的に広がる。
サクの瞳の黒目が青く明滅し、肌の表面に硬質な鱗の結晶が浮き出た。人間としての境界線を踏み越えるかのような激痛が全身を切り裂いたが、サクはその代償として爆発的な脚力を得て地を蹴った。
ドオンっ! と、足元の石畳が砕け散る。
サクの身体は矢のような速度で跳躍し、空中で優雅に浮遊するカワの至近距離へと肉薄した。右手に握られたナイフは、サク自身の血と真珠色の光を撒き散らしながら、一閃の極光となってカワの胴体へと振り下ろされる。
「おお……! 素晴らしい! 実に素晴らしいよ、サク!!」
カワが恍惚とした歓声を上げる。
サクの刃は、カワの華奢な胸元を深々と切り裂いた。
確かな肉の手応え。飛び散る濃密な青い体液。
だが、カワの顔に浮かんでいたのは、死への恐怖ではなく、待望の瞬間を迎えた者の狂喜だった。
「ついに……君の刃が、僕の深淵に届いたね」
切り裂かれたカワの胸の傷口から、青い脈管が爆発するように伸び、サクの右腕へと喰らいついた。
サクのナイフとカワの肉体が、青い体液の奔流を介して「結合」していく。
「ぐ、ああああああああっっっ!!!?」
サクの口から、いままでの人生で一度も出したことのない悲鳴が上がった。
カワの記憶、200年前の血塗られた記録、そして水都の感染者たちの絶望の叫びが、結合した右腕を通じてサクの脳内へ直接流れ込んでくる。視界が青と黒の濁流に塗りつぶされていく中で、サクはカワの無垢な瞳と至近距離で見つめ合っていた。
「さあ、サク……僕と一緒に、次のページを繰破ろうか」
ふたりの体が青い光の渦に包まれ、巨大な肉の塊へと引きずり込まれていく。
サムたちの制止の叫び声も、遠く、遠く、暗い水底の彼方へと消えていった。
3章16、17話から、少し読み応えが出るようにボリュームを増やしました。
執筆がちょっと遅れるかもですが、週1回月、火でまとめて投稿できるように頑張ります。




