第3章:蝕まれた世界 第16話:絶望の狂演
地下空洞を満たす空気は、もはや呼吸することすら躊躇われるほどに重く、甘く、毒々しく湿り切っていた。
巨大な天井から無数に垂れ下がる青い脈管。それらが蠢くたびに、ドクン、ドクンと空洞全体を揺らす不気味な脈動音が響き渡る。その中央で、肉の塊から伸びる粘液に包まれた少年、カワは、水面に軽やかに立ちながら、サクたちの足掻きを愉しむように首を傾げていた。
「サク、君のその顔……本当に最高だよ。カヤを救えなかった無力さ、自分の選んだ決断への後悔、そして僕への狂おしいほどの殺意……。すべてが混ざり合って、君という存在そのものが熟しきった果実のようだ」
「……黙れ」
サクの低く絞り出すような声が、不気味な反響音に混じって水面を這う。
右腕の手袋はすでにズタズタに引き裂かれていた。肘を超え、肩の付近にまで侵食を広げた真珠色の鱗は、カワの放つ青い波長と同調するように明滅を繰り返している。肉体の奥底から突き上げる「渇き」は、もはや喉だけでなくサクの全神経を焼き焦がさんばかりだった。
水中に飛び込み、この青い水を貪り飲めば、どんなにか楽になるだろう...
脳の深層で囁き続けるカワの影を、サクは狂気的なまでの意志の力でねじ伏せていた。
「サク! 一人で背負い込むなと言ったはずだ!」
咆哮とともに前に飛び出したのはサムだった。
大剣を両手で握り締め、背筋の筋肉をはち切れんばかりに弛緩・緊張させると、横合いから襲いかかる太い脈管の触手を強引に薙ぎ払う。激しい打撃音が空洞に轟き、青い体液が雨のように降り注ぐ。
「ツカ! サムのバックアップを頼む! アキ、マキ、サクの脇を固めろ!」
「分かってる!」
ツカは足場の悪い石畳に深く立ち押し、弓の弦を極限まで引き絞った。
射出された数本の矢は、空気を引き裂きながらカワへ肉薄する。だが、矢が届く直前、水面から突き出た脈管の防壁が即座に肉の楯となって矢を喰い千切った。
「チッ……反応が速すぎる! だけど……!」
「隙なら僕たちが作る!」
アキとマキが水飛沫を上げて地を蹴った。
双子のように息の合った身こなしで、左右に分かれて波打つ脈管の壁へ突撃する。アキが短剣で脈管の表面を浅く切り裂き、その傷口へマキが即座に第二の刃を深く穿つ。極小の連撃によって青い肉壁に一瞬の裂け目が生じた。
「今だ、サク!!」
二人の叫びが重なった刹那、サクの身体はすでに跳躍していた。
右腕の激痛を、真珠色の鱗の不快な疼きを、すべて刃の威力へと変える。サクの瞳はもはや人間のものではなく、絶望の底で燃え盛る黒い炎そのものだった。
「お前の『戯曲』は……ここで終わりだ!!」
サクのナイフが、空洞の濁った空気と青い光を切り裂き、カワの喉元へ一直線に突き刺さる
........はずだった。
「.....あは!
本当に、君たちは....
愛おしいね」
カワが微かに薄い唇を開き、パチン、と指を鳴らした。
その瞬間、サクたちの視界が青く歪み、空間そのものがぐにゃりと押し潰されるような強烈な衝撃波が吹き荒れた。
「ガあッ……!?」
サクの身体が不可視の圧力によって強引に弾き飛ばされ、濁った水面へと叩きつけられる。
同時に、サム、ツカ、アキ、マキの四人もまた、水底から激しく噴き出した青い羊水の濁流に呑み込まれ、壁面へと激突した。
「ぐ……ッ……!」
サムが大剣を壁に突き立てて踏み止まろうとするが、足元の水脈が生き物のように脚へ巻き付き、その動きを縛り上げる。ツカの弓は水圧に押されて手元から離れ、水底へと没していった。
「見せてあげるよ、サク。200年前、イサナが命と引き換えに隠そうとした……この世界の『本当の姿』をね」
カワが水面からゆっくりと舞い上がる。
その背後で、巨大な肉の塊が狂ったように蠢き始め、水都全体の地下水脈から引き集められた莫大な量の青い体液が、空洞の天井を満たし始めた。
絶望は、まだ始まったばかりだった。




