閑話:二百年の水底 第3話:最初の封印
神殿の木床を突き破り、異形と化した村人たちが雪崩れ込んできた。
かつてイサナに優しく微笑みかけていた人々の顔は半透明の鱗で覆われ、喉からは人間のものではない濁った水音が漏れている。
「イサナ……助けて……水が……ほしい……」
幼い頃から妹のように可愛がっていた少女が、鱗に覆われた手を伸ばしてくる。だがその瞳は濁り切り、青い粘液を吐き出しながらイサナの足を掴もうとしていた。
「そんな……みんな……!」
イサナは血を吐くような思いで涙を流した。
人々の救いとなっていた「水」が、いまや人々を怪物へと変える毒と化している。救う術はない。すでに彼らの命は、カワが神殿の奥へ作り出した青く脈打つ「母胎」へと繋ぎ合わされていた。
「美しいだろう、イサナ? 君が祈りを捧げてきた水が、彼らを新しく生まれ変わらせているんだ」
カワは押し寄せる異形たちの真ん中で、愛おしそうに両腕を広げて笑っていた。
「あなたは……許さない……!」
イサナは涙を拭い、神殿の奥祀りに鎮座する「水神の神器」、古くから伝わる冷たい黒鉄の宝剣を掴み取った。
イサナが狙ったのは、村人たちでも、目の前に立つカワでもない。自らの胸元だった。
「……っ!?」
カワの瞳に、初めて小さな驚きが走る。
イサナは宝剣で自らの掌を深く切り裂き、その血を神殿の床へ撒き散らした。
この神殿に流れる「本来の水神の血脈」寄生体にとっても猛毒となり得る純粋な霊脈の力を、自らの命を触媒にして一気に解き放ったのだ。
「我が命を薪とし……この水の怪異を……底へ鎮めよ……!」
溢れ出たイサナの赤き血が、床を覆う青い水脈と激しく衝突し、白い蒸気と恐ろしい絶叫を上げた。
青く脈打っていた母胎が黒く硬化し、異形たちの動きが石のように凍りついていく。
「へぇ……自らの命を捧げて、僕の庭を閉じ込める気かい?」
結界の鎖がカワの細い身体を締め上げていく。
だが、カワは苦しむどころか、うっとりとした表情で、自らの体を縛りつける結界の鎖を見つめていた。
「いいよ、イサナ。君のその命を賭けた絶望と執着……実に素晴らしい味だ」
カワの身体が青い体液とともに泥のように崩れ、黒く硬化した母胎の奥へと沈んでいく。
「でもね……結界はやがて綻ぶ。二百年後……君の血を引く者がもっと深く僕を愛してくれる頃に、また会おう」
少年の恍惚とした嘲笑を残し、神殿は深い深い静寂と闇の中へと沈んでいった。




