閑話:二百年の水底 第1話:落ちてきた種子
二百年前のこの村には、まだ澄んだ水が流れていた。
山懐に抱かれたその集落では、人々が山から湧き出る清水を敬い、神殿に祀られた「水神」に祈りを捧げて暮らしていた。その祈りを神へ届ける役目を担っていたのが、水神の巫女・イサナであった。
大雨が三日三晩降り続いた、ある静かな夜のことだった。
「イサナ様! 川べりに、幼子が打ち上げられています!」
村人の知らせを受け、松明を手に川へ駆けつけたイサナは、激流の鳴り響く浅瀬でその影を見つけた。
増水した濁流の中にぽつりと横たわっていたのは、浅い地黒の肌を持つ、見たこともない身なりの少年だった。油分を含んだように滑らかな肌は水滴を弾き、息も絶え絶えのはずなのに、苦しむ様子すらない。
「大丈夫ですか……! 今、助けます!」
イサナが駆け寄り、その細い身体を抱き上げた瞬間。
少年のまぶたがゆっくりと開き、漆黒の瞳がイサナを捉えた。
「……あは。暖かいね、ニンゲン」
少年は水に濡れた髪を額に貼りつかせたまま、無垢で、しかしどこかゾッとするほど美しい笑みを浮かべた。
その胸元からは、ふわりと完熟した蜜のような甘い香りが漂い、イサナの鼻腔をくすぐった。
イサナは少年の手を引き、神殿の離れへと連れ帰った。
言葉も素性も定かではない少年を、村人たちは「川から流れてきた子」という意味を込めて、優しく迎え入れた。少年は「カワ」と名乗り、無邪気な愛嬌で瞬く間に村の人々に親しまれていった。
カワが村に現れてから十日ほどが過ぎた頃。
イサナは神殿の供え物である水瓶を覗き込み、小さな違和感を覚えた。
いつもなら水晶のように澄み切っているはずの水が、ほんのわずかに青みがかり、水底で油のような膜を張っている。
そして、川で捕れる魚たちの背に、見たこともない真珠色の歪な鱗が生え始めていた。
「……気のせい、かしら……」
水瓶のフチを撫でるイサナの背後に、足音もなく気配が滑り込んできた。
「綺麗な水だね、イサナ」
振り返ると、カワがくすくすと声を立てて笑いながら立っていた。
その瞳には、これから始まる惨劇を静かに見つめるような、深々とした暗闇が宿っていた。
お仕事多忙のため、5日ばかり更新が遅れると思います。




