第2章:侵食の季節 第16話:幻惑の網と、肉迫する影
網の向こうから現れた人影は、ゆっくりと歩みを進めてきた。
浅い地黒の肌に、滑らかな腹筋の陰影。傍目には美しいレースを羽織り、油分のテカリを帯びた細身の肉体を佇ませた——あの少年だった。
「やあ。思っていたよりも早く着いたね。ダイに手こずるかと思っていたよ」
少年は親切な笑みを浮かべ、サクたちの目の前で足を止めた。
その足元からは、目視すら困難な蜘蛛糸が幾重にも張り巡らされている。少年自身は、その死の仕掛けをあらかじめ熟知しているかのように、完璧な足取りで糸の隙間を踏み分けていた。
「くそっ……! よくもダイさんをあんな目に……!」
サムがナイフを握り直し、少年を激しく睨みつける。
しかし、一歩でも前に踏み出せば、大木の間に仕掛けられた蜘蛛糸が容赦なく肉体を切断する。進むことも、退くこともできない悪夢のような空間。
「怒ることはないじゃないか。ダイはただ、新しく生まれ変わる過程を楽しんでいるだけだよ。君たちの『ニンゲン』という不完全な構造から解き放たれてね」
少年は楽しそうに首を傾げると、ふっと微笑んだ。
蜜のような匂いが風に乗って五人の顔を包む。吸い込んだ瞬間、サクの頭の奥がジンと痺れ、視界がぐらりと歪んだ。
「う……あ……!?」
ツカが頭を押さえて膝をつきかける。匂いに意識が揺さぶられた拍子に、身体が前に傾き、目の前の蜘蛛糸へと倒れ込みそうになった。
「ツカ! 動くな!」
サクは咄嗟にツカの服の襟ぐりを掴み、力任せに後ろへ引き戻した。ツカの前髪がひとすじ、目に見えぬ糸に触れて静かに散った。あと数センチ前へ倒れていれば、首ごと切り落とされていたところだった。
「はぁ……はぁ……っ! ありがとう……サク……!」
「……気を抜くな! 呼吸を浅くしろ!」
アキが叫ぶが、濃密な香りは脳の平衡感覚をじわじわと削っていく。焦点がぼやけ、どれが本物の木で、どこに凶器の糸が張られているのか、距離感が狂い始めていた。
「あはは、素晴らしい顔だ。恐怖と混乱で視界が閉ざされていく気分はどうだい?」
少年はサクたちの窮地を心から楽しむように、細い目を細めて笑った。
「君たちが苦しめば苦しむほど……あの女の子の苦痛も報われる。正気に戻されたあの子は、今頃どんな顔で自分を恥じているだろうね?」
「黙れ……っ!」
サクの胸の奥で、ドス黒い怒りが弾けた。
カヤの屈辱を弄び、村人を壊し、自分たちの正気を奪おうとするこの狂気。サクは朦朧とする意識を気合いで繋ぎ止め、必死に少年の足元と糸の境界線を凝視した。
(あいつは……糸の位置を知っている。踏み出す隙間は、必ずある……!)
死の網に囲まれた狭窄な空間で、五人の命を賭けた極限の対峙が始まろうとしていた。




