新しい生活
「篤史くん...篤史くん。」
遠くの方で聞き慣れた声が聞こえてきた。
「篤史くん、朝だよ。早く起きないと遅刻しちゃうよ」
耳元で聞こえる柔らかな声と、トーストが香ばしく焼ける匂いに誘われて、相馬篤史はゆっくりと目を開けた。
窓から差し込む春の柔らかな日差しが、広々としたリビングを白く照らしている。グレーを基調とした落ち着いたインテリア、角に置かれた立派な観葉植物。3年前に夫婦でローンを組んで購入した、都内の分譲マンションだった。
「……ん、あと五分……」
「ダメだよ。今日の午前中、大事なプレゼンがあるって昨日あんなに緊張してたの、誰だっけ?」
呆れたように笑いながら、紬がベッドの端に腰掛けた。黒髪を後ろで緩く結び、お気に入りのエプロンを着た彼女は、40代とは思えない落ち着いた美しさを纏っている。
相馬は体を起こし、そんな紬の姿を見て、自然と口元を綻ばせた。
「分かったよ。今起きる。……今日も綺麗だな、紬」
「もう、朝から何言ってるの。寝ぼけてないで、ほら、顔洗ってきて」
紬は少し照れたように頬を染め、パタパタとキッチンへ戻っていった。
洗面台に向かい、鏡の前に立つ。
鏡に映る43歳の自分は、仕立てのいいシャツを着て、髪も綺麗に整えられている。かつて若さにかまけて要領だけで生きていた男は、今や中堅デベロッパーの「営業課長」として、部下を率いる立場になっていた。
「よし、今日も頑張るぞ」
冷たい水で顔を洗うと、肌を刺す刺激と共に、心地よい充実感が全身に満ちていく。
相馬にとって、これが自分の歩んできた「20年間」だった。
高校を卒業して東京の大学へ進学し、東京の生活を満喫していたあの頃。家族や地元の友人たちと疎遠になっていた自分に会いに来てくれた紬の姿を見たとき、相馬は紬を幼馴染ではなく一人の女性として愛しているとはっきりと認識した。
その瞬間から相馬は無駄にした時間を取り戻すため、必死に勉強し、就職活動に励んだ。それはすべて、自分を信じて地元から東京へ追いかけてきてくれた、最愛の紬を幸せにするためだった。
大学を卒業し、すぐに紬は上京してきた。貧乏だった社会人1年目、ひとつのカップ麺を分け合って「いつか大きいお家に住もうね」と笑い合ったこと。なかなか眠れない夜は一つのマグカップに注いだホットミルクを分け合って飲んだこと。社会人3年目、大きなミスをして落ち込んでいた夜、紬が黙って手を握り締め、「篤史くんなら大丈夫」と支えてくれたこと。社会人5年目の紬の誕生日にプロポーズし、嬉し涙を流して頷いてくれたこと。
そして、紬はどんなときでも生きていることの喜びと感謝を忘れなかった。そのどれもが、相馬の血肉となり、脳裏に確かな手触りとして存在している、地道で、誠実な、本物の記憶だった。
相馬はネクタイをきゅっと締め直すと、リビングへと向かった。テーブルの上には、紬が作った目玉焼きとサラダ、温かいコーヒーが並んでいる。
「いただきます」
「お口に合うとよろしいのですが、相馬課長」
冗談めかして微笑む紬と視線を合わせ、コーヒーを口に含む。温かい苦味が、じんわりと身体に染み渡っていく。
35年の住宅ローン、子供には恵まれなかったけれど、それ以上に愛する人がすぐそばにいる。頼もしい上司と部下。誰もが羨むような理想の40代を、相馬は生きていた。
彼が20年間の努力の果てに掴み取った、あまりにも当たり前で、愛おしい日常。
──その「幸福な世界線」の裏側で、もう一つの歯車が狂い始めていることに、今の相馬はまだ気づいていなかった。




