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違和感

午後2時、東洋新聞社の一角。けたたましく鳴り響く電話の音と、キーボードを叩く乾いた音が混ざり合う編集局で、社会部記者の神田智治は、ペンを回しながら取材ノートを睨みつけていた。


先週から続いている、大手ゼネコンの談合疑惑。神田が足で稼いだ特ダネの裏付けはほぼ完璧だった。裏帳簿のコピー、関係者の証言、資金の流れ。彼の書く記事は、常に緻密なロジックと徹底的なファクトチェックに支えられている。感情に流されず、数字と事実だけを信じる。それが、社内でも一目置かれる「優秀な記者」としての神田のスタイルだった。


「神田、さっきの談合の件、デスクにゴーサインもらったぞ。夕方の編集会議にかける。お前、本当によく執念でここまで引っ張ってきたな」


先輩記者が缶コーヒーを神田のデスクに置きながら、感心したように言った。


「ありがとうございます。ですが、まだ一人、肝心の役員の口が割れていません。今夜もう一度、自宅に夜討ち(アポなし取材)をかけます」

「相変わらず隙がないねえ。まあ、たまには早く帰れ。最近ずっと会社に泊まり込みだろ」


先輩の何気ない言葉に、神田はふと手を止めた。


「……え?」

「ん? どうした?」

「……いや。なんかいつもと違う感じがして」

「そうか。まぁ、そんなときもあるよ」


神田は眉をひそめたが、それ以上は追及せず淡々と笑った。連日の徹夜取材で、脳が少し疲れているのだろう。そう自分に言い聞かせ、一口コーヒーを口に含んだ。


だが、先輩が去った後も、胸の奥に落ちた小さな「引っかかり」がどうしても消えなかった。

いつもと違う感じ。先輩の言葉の、何に自分は反応したのだろうか。


自分は世田谷の狭いワンルームで一人暮らしをしている。帰ったところで、誰もいない冷え切った部屋があるだけだ。早く帰る理由など、自分の人生には存在しない。


喉の奥に、苦い砂を噛んだような奇妙な感覚が残った。


神田は予定通り、口を割っていない役員の自宅に夜討ち(アポなし取材)をかけ、今まで集めた証拠を突きつけ、貴重な証言を得た。神田が世田谷の自宅アパートへ帰り着いたのは、23時を回った頃だった。


鍵を開けて入った暗い室内は、いつも通り静まり返っている。男の一人暮らしらしい、無機質で冷え切ったワンルーム。スーツを脱ぎ捨ててベッドに深く腰掛けたが、日中のあの「いつもと違う感じ」という妙な引っかかりが、どうしても胸の奥でくすぶって消えなかった。


気分転換を求めて、神田は立ち上がり、備え付けの古い本棚へ向かった。

最上段から、一冊の重い革製のファイルを取り出す。それは、数年前に亡くなった彼の師匠の事件記者でもあった大滝おおたき が遺した「過去の事件・事故スクラップブック」だった。


神田にとって、このファイルは単なる形見ではない。記者として迷った時、いつも最初のページからめくり、大滝の鋭い切り口と緻密な構成を学び直すための「教科書」だった。


ベッドの脇に腰掛け、神田は最初のページを開いた。

平成初期の、誘拐事件のスクラップ。大滝の代名詞とも言える、被害者家族の心情に寄り添った名署名記事だ。


(あの時、大滝さんは「記者は事実を書くのが仕事だが、事実の裏にある痛みを忘れたらただの拡声器だ」って、居酒屋でビール片手に言ってたな……)


懐かしい記憶を呼び起こしながら、神田は静かにページをめくっていく。

1990年代後半の汚職事件、2000年代初頭の連続詐欺事件。ページを追うごとに、大滝から叩き込まれた記者としてのノウハウ、交わした議論、その時の居酒屋の煙の匂いまでもが、鮮明に脳裏に蘇ってきた。


神田の指が、2006年の章へと差し掛かる。

そこで彼は、大滝の顔を思い浮かべながら、ふっと口元を綻ばせて声を漏らした。


「……大滝さん。僕が一番最初にあなたから教わったの、この事件の記事でしたよね」


それは、神田が新人時代、大滝から初めて「記事を書く時の参考にしなさい」と、渡された記事だった。地方都市で起きた、ある女性の悲惨な死亡事故だった。


「あの記事のロジックが、僕の今のベースになってるんですよ」


そう呟きながら、神田はそのページへと視線を落とした。


――しかし、そこには何もなかった。いや、正確には「別の記事」が貼られていた。


「……え?」


神田の指が、紙の上で完全に止まった。

2006年4月、めくった先にあるはずの、「女性の死亡事故」の切り抜き記事が、どこにも存在していなかった。どんなにページを前後しても、別の記事ばかりが並んでいる。


切り取られた痕跡はない。あったはずの記事がそもそも存在していない。

「そんな……。」


神田の背筋に、氷を押し当てられたような戦慄が走った。


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