現実と記憶
神田の脳には、その記事の「見出しのフォント」「大滝が書いたリード文の1行目」「使用された現場のカラー写真」のディテールまでが、完璧な解像度で記憶されている。暗唱しろと言われれば、今でもすべての文章を諳んじられるほど読み込んだ記事だ。
それなのに、目の前にあるノートは、初めからそんな記事は存在していないと冷酷に主張している。
「どういうことだ。俺の記憶が間違っているのか。そんなはずはない。あの記事は確かに存在していたはずだ。絶対に!」
論理と事実だけを信じてきた神田の中で、昼間の先輩との会話の違和感、消えた記事が、不気味な形を成して繋がり始める。
あの記事が世界から跡形もなく消滅している。
神田の目が、鋭さを帯びて血走り始めた。すでに深夜1時を過ぎていたが、神田はノートパソコンを開き、自社のデータベースにアクセスした。
神田の指が、正確にキーボードを叩いた。
【2006年4月 地方都市 三浦紬】
大滝のスクラップに記されていた日付、地名、そして被害者の名前。もしスクラップブックの手違いなら、本社のデジタルアーカイブには必ずデータが残っているはずだ。そうであってくれ、という願いを込めて、エンターキーを押した。
『該当する検索結果は見つかりませんでした』
冷徹なシステムメッセージが画面に浮かび上がる。
神田は小さく息を呑み、すぐさま検索条件を広げた。名前を外し、日付と地名、そして【交差点 トラック 死亡事故】だけで再検索をかける。その月にその場所で起きたすべての事故データを洗い出す。
画面にいくつかの地方版の記事が並ぶ。だが、どれだけスクロールしても、神田の記憶にある「三浦紬の死亡事故」の記録だけが、綺麗に抜け落ちていた。
「あり得ない……」
大滝が取材し、自分が何度も読み返したはずの記事が、デジタルデータにも存在しない。
(……いや、待て。落ち着け)
神田はキーボードから手を離し、大きく深呼吸した。少しでも激しく高鳴る鼓動を落ち着かせたかった。
(俺の記憶が間違っているのか? 2006年ではなく、2005年か2007年……あるいは、地名が違うのか?)
他社のデータベースにもアクセスし、同業他社の当時の社会面も閲覧したが、やはりそれらしき事故は見当たらない。
「勘違いなのか。どこの新聞社も取り扱っていないなんて...そうだ、大滝さんの知り合いの刑事なら、何かわかるかもしれない。連絡してみるか。」
混乱と焦りの中、大滝が取材していた刑事のことを思い出した。その人に事故のことを調べてもらえば、何かわかるかもしれない。
神田はスマートフォンを手に取った。画面に表示された時間を見て思いとどまった。
深夜2時に電話などできない。
明日の朝すぐに連絡しよう。神田はスマートフォンを机の上に置いた。
少し冷静さを取り戻した神田は改めて、現状を整理し始めた。
「記憶の中の事故は、現実に起こったことなのか。そもそも、なぜ今日まで気づかなかった?いままで何度もスクラップブックを見てきたはずなのに。」
目の前の現実と記憶のどちらを信じる?現実を信じるしかないだろう。そんな事は当たり前だし、今まで疑問に感じたこともなかった。
それでも、今回だけは記憶が絶対にあったと主張している。
何故だ。もしかすると、あのスクラップブックから他にも記事が無くなっているかもしれない。でも、あの死亡事故の記事以外は、全て残っていると確信している自分がいる。根拠など何もない。証明できるものが何もないが、存在していたと信じているのだ。
神田はノートパソコンを静かに閉じ、ベッドへと倒れ込んだ。
「疲れているのか。何かの事故と勘違いしているのか。」
事実だけを羅針盤にしてきた自分が、今、拠り所のない深い闇に放り出されている。
明日の朝、目が覚めれば、この奇妙な万能感に満ちた既視感も、胸の奥の不気味な空白感も、ただの重い疲労感とともに消え去っているはずだ。そう自分に言い聞かせ、泥のような眠りに落ちていった。




