変わり始める世界
翌朝、相馬はオフィスの自席で、既に仕事を始めていた。先週、適当に修正して提出した別の提案資料の修正を始めていた。
昨日、後輩に教えてもらった時に作ったメモを見ながら、ファイルと格闘していた。
「相馬さん、」
いつもの年下上司の声が聞こえ、相馬は振り向いた。
「相馬さん、昨日提出していただいた提案資料ですが、問題ありませんでした。次もよろしくお願いします。」
そう言って、年下上司は自席に戻っていた。
いつもなら、数値が違う、必要な情報が足りないなどの指摘ばかりで、突き返されるのが日常だったが、今回はあっさりと受理された。
午後2時を過ぎたころ、また自分を呼ぶ声が聞こえた。
「相馬さん、ちょっといいですか。」
相馬は、キーボードを打つ手を止めて、年下上司の元へ急いで移動した。
「先週提出してもらった提案資料ですが、作り直してください。」
年下上司は淡々と指示した。
「……申し訳ありません。今、修正中ですので、本日中に再提出します。」
相馬の言葉に、年下上司は明らかに驚いていた。
あの相馬が自主的に資料を修正しているなんて、ありえないからだ。
相馬はすぐに自席に戻り、格闘中の提案資料の修正を急いだ。
その日、定時を少し過ぎたが何とか提案資料を完成し、提出することができた。
翌日は見積作成に取り組んでいた。だが全くわからない。
「あれ、見積の金額は、ベースの金額から特別割引として、提案した金額を記載するんだっけ。」
「今のベースになる金額はどこにあるんだ?」
隣の席で、ぶつぶつ独り言を言っている、できない先輩を見かねて、後輩が声をかけてきた。
「今回は何を作っているんですか?」
後輩は少し興味本位で話しかけてきた。
「はは、見積書と注文書を作っているんだけど、やり方がわからなくてね。」
相馬は素直に答えた。
「見積書と注文書は決まったシステムがあって、それで作成するんですよ。デスクトップのこのアイコンから始めるんですよ。それでIDとパスワードを入力して...」
後輩が淡々と説明している。
その言葉を聞き逃すまいと必死でメモしていた。
「ちょっと待って。IDとパスワードっていつもらったの?」
相馬は慌てて聞き返した。
「このシステムが導入されたときにメールで届いてましたよ。見てないんですか?」
後輩はやっぱりなという表情をしながらも、メールの件名を教えてくれた。
「あったよ。メール届いてた。」
相馬はそのメールに書かれたIDとパスワードでシステムにログインした。
「あとは、ここを選んで、こうして、客先名とコードを入れて、提案した金額を入れると、客先ごとの割引率や決まった金額が自動で見積書と注文書に反映されるので、完成です。」
後輩は慣れた手つきでテキパキとシステムを操作して、相馬に説明してくれた。
「あ、ありがとう。」
少々あっけにとられた相馬をよそに、後輩はいつも通り仕事に戻っていた。
相馬は今聞いたことを少しでも忘れないうちに、メモに書き残している。
どこからシステムを起動して、使用するIDとパスワードを確認し、最初にどこを選択するのか、どこの欄から入力を開始すればいいのか。覚えていることをすべて文字に書き出した。
後輩が作ってくれた見積書と注文書は完璧だった。やっとの思いで見つけた提案資料の金額と一致しており、いとも簡単に作成した後輩と自分との差にショックを受けたが、これが現実だと改めて理解した。
相馬レベルの営業が外回りしても、何の成果もない。あまり客先訪問の仕事は回ってこない。数日間は簡単な提案書と見積書、注文書の作成の繰り返しだった。
今日は朝からずっと見積書と注文書を作成している。いつもは簡単に作成できているのに、今回はシステムが全くいうことを聞かない。
教えてもらった通りの手順で操作している。入力している金額も正しい。客先名も間違ってない。いつもなら、これで完成だ。でも今回は画面に表示されている金額が合わない。ベースになる金額が違うのか、それとも割引率が適応されていないのか。どこが間違っているかがわからない。もう一つの問題は運送費という選択肢が表示されているが選択できないことだ。この金額が設定できないことで、総額は絶対に一致しない。
「いったいどうなっているんだ。」
頼りの後輩は外出中だ。運の悪いことに、今日は戻ってこない。
既に時間は20時を過ぎていた。全く終わる気配がしない。こんなにも早く壁にぶち当たるのか。完全に手詰まりだ。これが今の限界だとしたら、絶望的だな。相馬は頭を抱えた。
「よう。相馬、元気か?」
懐かしい声がした。顔を上げると既に別の部署に異動になった、元上司がそこにいた。
「五十嵐さん、お久しぶりです。」
相馬は力なく、あいさつした。
五十嵐は相馬の隣の机の椅子を引っ張り出し、その椅子に座った。
「最近、頑張っているみたいだな。今は何しているんだ」
そういって、相馬のパソコンの画面を覗き込んできた。
「あぁ、これか、見積を作っているんだな。ちょっと見せてみろ。どうせ金額が合わないとか、運送費が選択できず、金額が入力できないんだろう。」
相馬は驚いた。
「どうして、わかるんですか?」
「みんな、躓くんだよ。」
そう言って五十嵐は笑って、操作を説明してくれた。
「いいか、金額が合わないのは、販売期間が違うからだ。販売期間が短期と長期で適用する仕入価格が違うことがある。今回はそのパターンだ。販売期間を短期ではなく長期に変更しないとダメだ。提案書も長期と書いてあるだろう。
あと運送費を設定するには、ここだ。この通信費の項目を選択することで、運送費が選択できるようになる。覚えとけよ。」
「何、ぼーっとしてるんだ?忘れないうちにメモしておけよ。」
五十嵐は笑いながら、相馬のメモ用紙を指さした。
「すいません。ありがとうございました。朝からずっとわからなくて。助かりました。」
相馬は立ち上がって頭を下げた。
「気にするな。何があったかは知らないが、諦めずに頑張れよ。」
そう言って、五十嵐は自分の部署に戻っていた。
相馬は元上司の背中を見ながら、どんなに惨めで格好悪くても、逃げることをやめる。この現実はすべて自分がサボってきた結果であり、それを認め、紬に会いに行く自信と覚悟を手に入れることを改めて決意した。
相馬の変化に周囲が気づき始めていた。最初は一時的なものだろうと半信半疑だったが、この数週間の頑張りは認めざるを得なかった。
相馬の仕事のスピードは周囲と比べると時間がかかりすぎる。そして間違っていることもある。でもその間違いは理解できる。適当にやったのではなく、一生懸命やった結果の間違いだ。だからこそ、誠実に仕事と向き合っていることは間違いなく真実だと、相馬の周囲の人は感じていた。
阿部と会った日からちょうど1ヶ月が過ぎていた夜、疲れ果てた相馬は、酒も飲まずにベッドへ横になった。




