すべての始まり
43歳になっても、俺は何一つ変わっていなかった。
自分が傷つきたくないから、今この瞬間もすべての責任を環境や他人のせいにしている。
自分のせいで親や地元の知人や友人から見捨てられ、誰からも相手にされなくなり、紬の死を無視していたという残酷な現実から、今も全力で逃げ続けているだけだった。
月曜日の朝、いつもなら気が重く、人生で一番憂鬱な時間だった。だが、今は違う。すべてをやり直す決意をした相馬にとっては、新しい人生の始まりの時間だ。
洗面台の鏡の前で、無精ひげを剃り、寝癖を直した。
日曜の夜、25年ぶりに取り出したアイロンで、丁寧にしわを伸ばしたYシャツを着て、ネクタイを締めた。
「よし。今日からやり直すんだ!」
気持ちも新たに意気揚々と家を出た。
オフィスへの道のりはいつも通りだったが、行きかう人たちから活力を感じ、すべてが違って見えた。
足取りも軽く、あっという間にオフィスに到着した。一瞬、戸惑ったが、やり直すんだという気持ちを改めて確認し、自部署へ向かった。
そこには、いつも通りの無機質なデスクがあり、ほとんどまともに使っていないノートパソコンが、無造作に置かれていた。
いつもなら、デスクにカバンを置き、すぐに喫煙所へ向かうが、今日は違う。いや、今日からは違う。すぐにノートパソコンの電源を入れ、起動するのをまった。
散らかった机の上を片づけ始めると、一瞬周りがざわついた気がしたが、相馬は気にせず、いらないものをまとめた。
何とか最低限仕事ができる環境が整ったあと、椅子に座りパソコンの画面を見た。
メーラーを開く。そこにはいつもの年下上司から、資料作成の催促のメールが届いていた。
そのメールを確認しているといつもの声が聞こえた。
「相馬さん、頼んでおいた資料だけど、いつ頃完成しますか?」
年下上司。なんてタイミングが悪いんだ。
「申し訳ありません。今日中に作成して提出します。」
相馬はしっかりと答え、仕事を進めた。
相馬の返事を聞き、上司は何も言わず、黙って戻っていた。
恐らく、今日もだめだと感じたんだろう。それほどまでに、相馬は信用されていなかった。
数分後、相馬の手は完全に止まっていた。どうすればいいのか、さっぱりわからない。
単なる提案資料だ。すでに会社で決まったフォーマットがあり、特定の得意先向けに決められた割引率を使用し、提示額を決める。同等品との比較表を追加して、この商品がいかにお買い得であるかを説明すればいい。
わかっている。わかっているが形にできない。
最近は生成AIを使えば良いなんて、よくCMで流れているが、うちの会社では使えるのかどうかもわからない。誰に何をどう聞けばいいのか。何もわからない。
結局、午前中は何もできなかった。
昼休み、相馬はオフィスビルに併設されている共有の休憩スペースのベンチに座っていた。
気分転換のため、外出していた。
簡単な仕事だ。新入社員の頃はできていた仕事だ。それさえも今はできないのか。自分の現在地を改めて認識し、天を仰いだ。
「みんなどうやって仕事してるんだろう。」
恥を承知で聞いてみるか。そんなことしたら、恥ずかしさと情けなさで、どうにかなりそうだ。
昼休みも終わり、オフィスに戻ると既に周りは仕事を始めていた。
相馬も急いで、自席に戻り、午前中から全く変化のないパソコンの画面を見た。
1時間ほど、四苦八苦していると、声が聞こえた。
「さっきから何してるんですか?」
見かねた後輩が声をかけてきてくれた。
一瞬、「いや、ちょっとPCの調子が悪くて。ダメだなこのPC」と適当に誤魔化そうとしたが、思いとどまり、正直に話した。
「いやぁ、提案資料を作っているんだけど、必要な数値の管理場所と計算式がわからなくて...」
入社直後の新人が初めて仕事するときに確認するレベルの内容だった。それを20年近くも所属している先輩が言うなんて、きっと、後輩は驚くし、無能のレッテルを貼るだろう。だが、今更、恥も外聞もない。そこまで追い詰められていた。
意外にも、後輩は驚きもしなかったが、丁寧に教えてくれた。
相馬は教わったことを必死にメモをとった。
「ありがとう。」
相馬は久しぶりに人の優しさに触れた気がした瞬間、自然とお礼の言葉がでた。
後輩が一瞬驚いたような表情になったような気がしたが、何事もなかったように自分の仕事に戻っていた。
必死にとったメモを見たが、それでも時間がかかった。慣れない作業ばかりで、時間だけが無駄に過ぎていった。
できたかと思えば、抜けている個所があったり、デザインを修正しようとすると、意図しないところが変更され、元に戻せなくなる。ファイルをこまめに保存する習慣がない相馬は、何度も最初からやり直していた。
それでも、後輩のおかげで、何とか資料を完成することができ、ぎりぎりで提出することができた。
ーーやればできる。そう感じた瞬間でもあった。
相馬はいつも通り定時で帰宅したが、今まで感じたことのない達成感と充実感、そして疲労感を身に染みて感じていた。
俺は変われるかもしれない。そう思いながら相馬は眠りについた。




