最後の決断
紬はゆっくりと顔を上げた。その目元には色濃い隈があったが、瞳には光があった。
「ありがとう、篤史くん……」
そう言って、マグカップを受け取る紬の横に相馬はゆっくりと腰を下ろした。
二人の間に少し静かな時間が流れた。
「懐かしいね。」
紬が静かに話し始めた。
「東京に出てきてすぐの頃、本当にお金がなくて、眠れない夜は、こうして一つのホットミルクを二人で分け合って飲んだよね。」
「……ああ。懐かしいな。眠れない夜はいつもそうだった」
紬は遠い目をして、愛おしそうにマグカップを見つめていた。
「私ね、23歳の時に上京してからずっと嬉しくてたまらない。それはずっと篤史くんと一緒に居られるからだと思ってた。でもね、いつも不思議な感覚もあったの。」
「上手く言えないんだけど、私の頭の片隅にはずっと、誰にも選ばれず、プロポーズもされず、冷たくて寂しい場所で一人ぼっちでいる『別の私の20年間』の気配が、ずっと澱のようにへばりついているの。でね、その中に私を忘れてしまった篤史くんの記憶もあったの。」
「だから私、この世界でのちょっとした日常が、まるで奇跡みたいに愛おしくて、毎日生きていることに感謝せずにはいられなかった。……でもね、あの悪夢を見たとき、自分が車に撥ねられる瞬間をはっきりと自覚したとき、やっとすべての答えが繋がったの」
紬はホットミルクをローテーブルに置き、隣に座る相馬の方へ、ゆっくりと体を向けた。
「私が上京した日、23歳のあの春の日に、地元の交差点で死んでいたんだよ。死んだあとの寂しさを、私の魂だけがずっと覚えていたの。……じゃあ、なんで私は今、ここであなたと幸せに過ごしているんだろう。あなたの奥さんをやれているんだろう? って、一生懸命、記憶を遡ってみたの」
紬の澄んだ瞳が、まっすぐに相馬を射抜く。
「そうしたらね、たった一つだけ、世界の歯車が狂った場所があった。……高校2年生の、あの放課後」
「あの日、手を握って泣きながら『ごめん』と言った17歳の篤史くん。……あれは、この世界のあなたじゃない。私を失って、ボロボロになって、でも私に会いたい一心で会いに来てくれた、別の世界の未来のあなただったんだね。あの日のあなたの言葉が、私を東京に向かわせたの。あなたが私の運命を変えてくれたから、私はこの最高のご褒美みたいな20年を生きられたの」
魂の記憶としか言いようがない。自分がどれほど深く紬を愛し、どれほどの絶望を経てここに立っているのかを、相馬は完全に理解した。記憶はない。けれど、あの日胸が張り裂けそうに痛んだあの涙の感覚を、自分の魂が確かに覚えている。
あの日、高校2年生の放課後に、泣きながら紬に謝ったことで、紬の心の中で変化があり、23歳の紬は決心し、4月13日、運命の日にいつもより早く家を出たことで、事故にあわなかった。
きっかけは些細なことだった。
紬の瞳は涙で溢れていたが、表情は驚くほど穏やかだった。
怯えるでもなく、相馬を責めるでもなく、ただいつものように優しく微笑んでいた。
「篤史くん。ごめんね」
紬はゆっくりと相馬に抱きついた。紬の体から柔らかな温もりを感じた。
「……なんで、お前が謝るんだよ」
「だって、私のせいで、篤史くんをこんなに苦しませてたんだもん。20年前も、そして今も……。私の知らないところで、篤史くんはずっと独りで、私を死なせないために地獄みたいな思いをしてくれていたんでしょう?」
「違う! 俺が、俺が...」
相馬の目から、堰を切ったように涙があふれ出た。
「俺が元の世界でクズだったから、お前が死んだことも気づかずにのうのうと生きてたから……!
でも俺の身勝手な行動が、過去を変えてしまったんだ。そのせいで、別の女の子が死んで、世界がおかしくなって……。なのに俺は、お前をあの冷たいアスファルトに戻すのが怖くて。いま、悪夢で苦しんでいるお前を救うこともできず、何もできずにのたうち回ってる。俺は最低の臆病者だ!」
「臆病者なんかじゃないよ」
紬は、泣きじゃくる相馬の頬に優しく手を当て、その涙を親指で拭った。
「ある日突然、篤史くんが私の手をすっごく強い力で掴んで、泣きながら『ごめん、紬』って謝ってくれた日。あの時の篤史くんの目は、今の篤史くんと同じ、何かをいっぱいいっぱい背負った大人の目だった。……私ね、あの時の温かい手が、ずっと忘れられなかったの」
紬は愛おしそうに目を細めた。
「あの時、未来の篤史くんが私を助けに来てくれたから、私はこの20年間、本当に幸せに生きることができた。大好きな篤史くんの奥さんになれて、毎日笑って過ごせた。私の人生はね、もう十分すぎるくらい、篤史くんに救ってもらったの」
「紬……」
「私のせいで、私が生きていることで、誰かが悲しい思いをするのは嫌だよ。そんなの絶対にいやだよ。」
「でも、世界が元に戻ったら、お前は23歳で……!」
相馬は紬の身体を強く抱きしめた。この温もりを失いたくない。世界なんてどうなってもいい、このまま嘘の幸福の中で滅びてもいいとさえ思った。
しかし、紬は相馬の胸の中で優しく凛とした声で言った。
「大丈夫だよ、篤史くん。私はどこにも行かない。篤史くんの心の中に、この温もりはずっと残り続けるから」
紬は体を少し離し、相馬の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、迷いも恐怖もなかった。まるで暗闇を照らす太陽のような、絶対的な無償の愛がそこにあった。
「篤史くん。世界を、元に戻して。」
「紬……」
「いってらっしゃい、篤史くん。私の、愛する人」
紬の優しい笑顔が、相馬の視界の最後を飾った。
相馬は強く目を閉じた。腕の中にいる紬の温もりを感じながら、脳の奥底にある「地獄の1ヶ月」を、今度は紬の手を借りて、二人で引きずり出しにいく。
阿部から告げられた訃報、他責にまみれた醜い自分への激しい怒り、そして、紬を救えなかったという本当の、混じり気のない「手遅れの絶望」。
二人の脳波が、世界線の軋みの中で完璧に同期していく。
心臓が爆音を立て、視界が、ぐにゃりと反転する感覚が襲った。
時の壁の向こう側。白い光が、二人の世界を包み込んでいった。




