約束の指輪
激しい閃光と、脳をかきむしるような眩暈が収まったとき、相馬の意識は、少し寒さが残る春の日に戻っていた。
ガタンゴトンと響く規則正しい重低音。周りをみると、そこは地元の駅のホームだった。
目の前には、緩く結んだ長い黒髪を左の肩の前に出し、落ち着きなく手で触っている
―― あの頃のままの、紬が立っていた。
「たまには帰ってくるの?」
少し寂しそうな顔で、紬が尋ねてくる。
元の世界線では、相馬は適当な返事をして東京へ向かい、そのまま彼女を置き去りにしていた。それが、手遅れの絶望の始まりだった。
だが、今の相馬の身体には、20年分の苦悩と、彼女の思いと温もりが宿っていた。
「紬、聞いてくれ」
相馬は一歩踏み出し、二度と離さないという強い意志を込めて紬を抱きしめた。
「きゃっ、篤史くん!? どうしたの……?」
真実は告げられない。
でもほんの少しでも幸せな時を過ごして欲しい。
そんな思いを込めて、相馬は驚く彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて、静かに強く言った。
「俺、東京の大学を卒業したら、必ずここに帰ってくる。地元に戻って、ずっとお前の側にいる。……だから、その時は、俺と結婚してほしい。」
紬は一瞬、呆然と目を見開いた。やがて、その瞳にじわりと涙を溜めながら、笑顔を咲かせた。
「……うん! 待ってる。ずっと、待ってるからね、篤史くん」
その笑顔を見届けた瞬間、相馬の意識は激しい白い光の中に溶けていった。
「ピピッ、ピピッ、ピピッ」
スマートフォンの穏やかなアラーム音が響く。
「……ん」
相馬篤史はベッドの上でゆっくりと上体を起こした。
カーテンの隙間から、2026年の静かな春の光が差し込んでいる。
相馬は東京の有名企業からの内定をすべて断り、地元の企業への就職を決めて、約束通り地元の駅のホームに降り立った。
改札の向こうには、あの日よりも少し大人びた、けれどあの頃のままの優しい笑顔を浮かべた紬が立っていた。
4年前にホームで別れた日から、相馬の心の中にはずっと紬がいた。だからこそ、相馬は、東京での充実した4年間を過ごすことができた。
相馬のポケットの中には、4年間のアルバイトで必死に貯めたお金で買った、小さな、でも本物の指輪の入ったケースがあった。
ゆっくりと歩み寄り、4年分の距離を埋めるように視線を交わす。
紬は、ずっと待っていた最愛の人を、包み込むような太陽の笑顔で迎えた。
「お帰り、篤史くん。私の、愛する人」
「ただいま。紬」
相馬はそう言いながら、優しく微笑み返し、紬の手にそっと触れ伝えたかった言葉を口にした。
「待たせてごめんね。」
その言葉と同時に、相馬は指輪の入ったケースを差し出し、言葉を続けた。
「結婚しよう。」
その言葉を聞き、紬は黙ってうなずいた。
それは長い時をかけた、二人の約束が叶った瞬間だった。
そして、その一年後、紬は因果の通り、地元の交差点でダンプカーに撥ねられて亡くなった。
通夜の席で、相馬は彼女の左手を握りしめ、狂うほどに泣いた。彼女の左手の薬指には相馬が送った指輪が静かに光っていた。
だが、あの5年間があったから、彼はもう二度と、あの頃のクズな自分には戻らなかった。彼女と確かに愛し合い、約束を果たせたという誇りが、彼の魂を強く繋ぎ止めていた。
「おはよう、紬」
43歳になった相馬のベッドの枕元には、23歳の頃のまま、おっとりと微笑む紬の写真が飾られていた。
写真の中の最愛の人に声をかけ、相馬はベッドから立ち上がった。
彼はいま、自分の足でしっかりと現実を踏みしめて生きている。彼女の死を真正面から受け入れ、今でも彼女だけを愛し続けている。
その日の昼下がり。相馬は喪服に身を包み、品川のガード下を歩いていた。
地元の企業から東京への出張。そして今日は、紬の命日だった。東京での用事を済ませたら、そのまま地元へ戻り、彼女の墓前へ向かう予定だった。
「あ、すみません!」
向こうから走ってきたトレンチコートの男と、軽く肩がぶつかった。
「あ、いえ、こちらこそ」
お互いに軽く頭を下げ、謝罪を交わす。
すれ違いざま、相馬はその男の顔を盗み見るように視線を走らせた。なぜか胸の奥が激しく脈打ち、奇妙な、狂おしいほどの既視感が脳裏を駆け巡る。
相馬の喉の奥まで出かかった名前があったが、結局、言葉にはならず、ただの人違いとして消えていった。
二人はそのまま、足を止めることもなくすれ違う。
男は小走りで、ガード下の向こう、人混みが待つ駅の改札へと向かっていく。
相馬もまた、自分の目的地へと歩みを進めようとした、その時だった。
ガード下に響く電車の轟音の隙間から、先ほどの男の、少し焦ったような、けれどとても幸せそうな声が響いた。
「――彩華! ごめん、待たせたか?」と、華やかな色彩に満ちた花束を持って愛しい人の名前を呼ぶ声が響く。
相馬は、ピクリと足を止めた。
振り返ることはしなかった。ただ、雑踏の向こうで、愛しい人の名前を呼ばれて嬉しそうに笑う、見知らぬ女性の気配が確かにそこにあった。
相馬はそれを見て、なぜか深く、心の底から救われたような気がした。
理由なんて、今の相馬には分からない。ただ、これで良かったんだと、胸の奥の仕えがスッと消えていく。
二人の記憶から、あの歪んだ因果の戦いはすべて消え去っている。二人は、すれ違っただけのただの赤の他人。
それでも、世界は正しく回り始めた。
あの男の最愛の人が生き残り、相馬が紬の死を受け入れて前を向いた、この新しい世界線が。
ガード下を抜けると、まばゆい春の光が相馬の視界をいっぱいに満たした。
相馬は白い花束の入った紙袋を抱え直し、ふと空を見上げた。その目はもう澱んでいない。その澄んだ瞳には覚悟と自信が溢れていた。
脳裏に、長い黒髪を緩く結んだ、おっとりとした少女のあの笑顔が、一瞬だけ陽炎のように揺らめいた気がした。
最愛の人を20年前に失った。けれど、彼女と交わした最後の約束と、彼女を愛し抜いたという誇りは、これからの相馬の人生をずっと、どこまでも温かく照らし続けていく。
相馬は一歩、力強くアスファルトを踏み締め、大勢の人が行き交う春の街へと歩き出した。




