二人の思い出
神田に初めて会った日から相馬はずっと迷っていた。
紬はこの事実を知れば、間違いなく今の幸せを諦めるだろう。誰かを犠牲にして自分が幸せになる人生は選ばない。
でも、俺は違う。譲りたくない。そんな気持ちがどうしても心の中にある。
神田はあれから一度も現れない。彼は自分のしていることを客観的に見ていた。
だからこそ、彼もきっと後悔しているのかもしれない。もしかしたら諦めるかもしれない。
もし彼がこのままずっと来なければ今のままでいられる。
幸せな人生を歩み続けることができる。
紬を、自分の最愛の妻を20年前の死線へと突き落とす必要なんてない。
会ったこともない人の人生を取り戻すことに何の意味があるんだろう。
ずっとそんなことばかり考えていた。
紬が隣で眠っている。
「えっ…?」
見ると、紬は荒い呼吸を繰り返していた。額にはびっしょりと汗が浮かび、その身体は小刻みに震えている。
「紬!」
「……篤史くん?」
不意に、隣から掠れた声がした。
「紬!? どうした、悪夢でも見たのか?」
相馬は慌てて彼女の肩を抱き寄せた。
「……うん」
紬は相馬のパジャマの胸元に顔をうずめ、必死に涙を堪えるように身を縮めた。
「最近、怖い夢をよく見るの。すごくリアルで、冷たくて……」
「どんな夢だ?」
「……23歳の時の夢。私は暗い交差点を歩いていて、急に眩しい光が視界いっぱいに広がって、耳が痛くなるようなブレーキの音がして……。体がふっと軽くなって、そのあと、すごく冷たいコンクリートの上に倒れてるの。体中が痛くて、動けなくて、視界がどんどん暗くなっていくの。……ただの夢のはずなのに、胸が締め付けられるみたいに苦しくて、本当に私がそこで死んじゃったような気がして……」
相馬は息を吸うことすら忘れた。全身の血の気が、一気に引いていくのが分かった。
それは夢ではない。あの「本来の歴史」そのものだ。
俺が過去を弄び、神田に会って因果の復元を試みようとしているせいで、世界線の軋みが紬の脳にまで異質な悪夢として漏れ出しているのだ。
「大丈夫だ、紬。ただの夢だ。俺がここにいる。お前は生きているだろ?」
相馬は引き裂かれそうな胸を隠し、ただ強く、折れそうなほど強く紬を抱きしめることしかできなかった。
「ごめんね、変なこと言って。……篤史くんの腕、すごく温かい」
紬は無理に微笑み、相馬の胸に耳を当てた。
その温もりを感じるたびに、相馬の魂は削られていった。
この温もりを消さなければならない。彼女を、あの冷たいアスファルトの上へ戻さなければならない。
世界を元に戻さない限り、今の紬の苦しみは終わらない。でも、過去をもとに戻すと紬を失ってしまう。
その日の夜から、相馬への静かな拷問が始まった。
何日も悪夢にうなされる紬を見るたびに、自分の弱さを痛感した。
どうにもできない自分を罵倒し、罵り、卑下した。でもどうしても過去に戻れなかった。
紬はあの悪夢を見る頻度が上がっている。そのため寝ることを拒んでいる。当たり前だ。
自分が死ぬ夢なんて、見たくない。
相馬も自身も何度もあの悪夢を見ている。その度に絶望を味わい、過去へ戻りたいと願うが紬の笑顔がどうしても頭をよぎる。決心が揺らぐ。
紬は最近一人で考え込んでいる。きっとあの悪夢のことだろう。
気にしないように言ったが、無理な話だ。自分が死ぬ同じ夢を何度も見るなんて、普通にありえない。
さらに数日が過ぎ、紬の精神はもう限界に見えた。
深夜、リビングのソファで、膝を抱えて座っている紬の姿があった。うつむく彼女の小さな肩は、目に見えて痩せてしまったように思える。
相馬は昔二人でよく飲んだホットミルクを一つのマグカップに注いだ。
「……紬。一緒に飲もう。」
そっと声をかけ、マグカップをローテーブルに置いた。




