魂に刻まれた影
東洋新聞社の地下にある資料室は、カビと古い紙の匂いが立ち込めていた。
神田から指定されたその場所で、相馬はパイプ椅子に腰掛け、重い口を開いた。ここ数日、頭から離れなかった「奇妙な違和感」を、神田に打ち明けるためだ。
「神田さん。あなたと会ってから、おかしな夢を見るようになったんだ。」
「おかしな夢?」
資料の束をめくっていた神田が、手を止めて目を向けた。
「ああ……。自分が40歳を過ぎても独身で、出世もせず、狭い1DKの部屋でコンビニ弁当を食べている夢だ。夢の中の俺は、先ほどのガード下で高校時代の友人の阿部に偶然会って、紬が23歳の時に事故で死んだことを知らされる。そこからの1ヶ月間、俺は自分のクズさ加減にのたうち回って、頭を掻きむしって苦しみ抜いて……。最後は、自宅のベッドで眠りについた瞬間に、高校の放課後の教室で目が覚めるんだ。そこで俺は、泣きながら紬の手を掴んで『ごめん、紬』って謝る。そんな夢だよ」
相馬は自嘲気味に息を吐き、額の汗を拭った。
「目が覚めれば、隣には妻の紬がいて、自分は営業課長だ。ただのリアルすぎる悪夢か、仕事の疲れによる勘違い。あるいは、ただアニメや映画のどこかのシーンが混ざりあった質の悪い夢だと……。でも、これは元の世界の俺の人生であり、その記憶だったんだな。」
相馬は息を呑んだ。あの惨めで孤独だったうだつの上がらない社員の夢が、自分のもう一つの現実だったという事実を今も受け止めきれていない。
神田は手元にあった故人の遺稿集のレポートをめくり、あるページを指で指し示した。
「確かに今のあなたにとって、今の人生が本当の人生だと言えるだろう。でも、このレポートにある『意識リープの法則』を読めば、少しは認識が変わるかもしれない。過去の行動を変えた瞬間、あなたの意識は必ずこの現代へと戻ってくる。だが、世界線が変わった影響で、あなたの脳は『紬さんと結婚して幸福に生きてきた20年』の記憶に強制的に上書きされる。それがルールだ。だから、あなたが元の世界で味わった地獄のような記憶は、今の脳にとっては『ただの悪夢』や『デジャブ』として処理される。」
神田は話を続けた。
「あなたの意識を過去へ飛ばした引き金は、ガード下での突発的な衝撃じゃない。友人から三浦紬さんの死を聞かされてからの1ヶ月間、己の醜さと向き合い、言い訳をやめ、覚悟を決めて苦しみ抜いた、その『感情のピーク』だ。……つまり、もう一度過去へ戻るための条件は、『感情』の完全な同期だ」
「紬が隣にいるあの部屋で、あいつが死んだ時の絶望を再現しろと言うのか……?」
相馬は絶句した。
「そうだ。あなたが、ただの質の悪い夢だと言った『あの1ヶ月間の、身を焦がすような絶望と後悔』を、脳内で完璧に再現する。あるいはそれと等しい感情のピークを起こすしかない。」
神田は静かに、しかし冷徹に事実を突きつけた。
だが心の中では、自分がどんなに残酷で非常識なことを言っているのかを理解していた。
「そして、その再現に挑んだとして、成功するかどうかもわからない。どれだけ絶望を思い出そうとしても、ただの勘違いで終わり、世界は今のまま何も変わらない。」
資料室の空気が、凍りついたように重くなる。
「でも、もし本当に過去に戻れば、あんたは三浦紬という女性を、自分の手で再び23歳の死線へ送り出すことになる……。」
今の幸福な記憶の裏側に張り付いていた、あの惨めな悪夢の正体。それを受け入れ、もう一度あの絶望の深淵に飛び込まなければ、世界は元に戻らない。
相馬は掠れた声で、「……少し、考えさせてくれ」とそれだけ言うのが精一杯だった。
相馬は神田がまとめた資料を受け取り、二人で地下室を出た。
「相馬さん。本当に申し訳ない。俺はあなたを苦しめたい訳じゃない。でも今もどうすればいいかわからない。この記憶や感情も、時間が経てば完全にこの世界線の果てに消え去るかもしれない。」
「彩華を失った感情を知る俺が、あなたに紬さんを諦めて欲しいなんて言えない。
勝手なこと言って申し訳ない。今日を限りに二度とあなたの前には現れません。
最後はあなたの望む決断をしてください。」
神田は決心していた。どんな結末になっても受け入れると。




