戸惑いと迷い
神田が去り、カチャリとドアが閉まった応接室で、相馬篤史はしばらく立ち上がることができなかった。
激しく乱れた呼吸を整えるため、冷え切ったコーヒーを喉の奥に流し込む。営業課長として培ってきた理性が、必死に脳内を整理しようと駆動を始めた。
一度デスクに戻り、部下には「少し立ちくらみがしただけだ」と平静を装って残務をこなしたが、パソコンの画面に並ぶ数字はまったく頭に入らなかった。
なんとか平静を装い普段通りにマンションの扉を開けると、いつものように出汁の温かい匂いと、妻の紬が迎えてくれた。
「おかえりなさい、篤史くん。遅かったね」
おっとりとした笑顔。誰の心もそっと包み込むような、あの太陽のような温かさ。
相馬は何事もないように「ちょっとコンペの準備でね」と嘘をつき、ネクタイを緩めた。だが、紬は相馬の微かな目の泳ぎや態度の違いを逃さなかった。食卓に並んだ料理を食べながら、紬が心配そうに覗き込んでくる。
「篤史くん、何か会社で嫌なことあった? 無理しちゃダメだよ」
「……いや、本当に大丈夫。ちょっと疲れてるだけさ」
自分を気遣う彼女の純粋な瞳を見るたび、胸の奥がキリキリと痛んだ。彼女は何も悪くない。ただ普通に、優しく生きているだけなのに。
深夜、紬が寝静まった後、相馬は暗いリビングで一人、ノートを開いた。神田から聞いた話を思い出していた。
2006年4月13日、紬は上京してきている。でも元の世界では紬は地元で事故にあい死亡している。
俺は上京してきた紬と再会し、生き方を変えた。
何故、紬は突然上京してきたんだろう。何が紬をそこまでさせたのか。
考えを巡らせていると、相馬は高校時代のあの放課後の記憶にたどり着いた。
当時、要領だけで生き、紬への態度もどこか軽薄だったはずの自分が、ある日突然、強烈な悲しみと後悔に襲われ、理由も分からず彼女の手首を掴んで涙を流し謝罪した日があった。
――『ごめん、紬』。
その言葉を思い出した瞬間、脳裏でフラッシュバックする「狭い1DKで泣き叫ぶ悪夢」が、鮮明な事実として身体に刻まれていく。
神田の推論は正しい。俺は、過去を変えた。
(あの時、俺の身体の中にいたのは……未来の、紬を失って絶望した俺だったんだ。)
そして、激しい葛藤が相馬を襲う。一人の少女の命と引き換えに得た幸福。世界を元の形に戻すべきなのかもしれない。だが、それは最愛の紬を、再びあの冷たいアスファルトの上へ送り出すことを意味していた。答えなど、出るはずがなかった。




