↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
時が終わる春に、約束の指輪を  作者: アルファベット・あき蔵


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/23

それぞれの現実

相馬は、背中に冷たい汗が伝うのを感じながら、震える声を必死に抑えて問い返した。


「……神田さん。あなたの言っていることは、精緻な因果の数式としては成立している。だが、一つ聞かせてくれ」


「何でしょうか」


「もし、万が一、その荒唐無荒な仮説が本当だとして……あなた自身、その記憶のズレを、ただの『激務による精神の疾患』や『既視感デジャブ』だとは、なぜ思わなかった? 自分の記憶や思い違いを疑うのが、普通じゃないのか」


相馬の質問に、神田は一瞬だけ、悲しげに目を細めた。そして、自分の胸のあたりにそっと手を当てた。


「疑いましたよ、何度も。でも、この世界線の私は、佐伯彩華という女性と一度も出会っていない。

相馬さん、この世界では、彼女は...佐伯彩華は20年前に死んだ、ただの赤の他人です。それなのに」


神田の声が、初めてわずかに震えた。


「脳裏で笑う彼女の残像を思い出すたび、胸の奥が引きちぎられそうなほど愛おしく、そして切ない。理屈じゃないんです。この世界の誰も彼女を覚えていなくても、私の心には、彼女を愛していたという、上書きされきれなかった本物の熱が残っている。……そして、あなたの中にも、あるはずだ。三浦紬を失って、狂うほどに泣いた記憶の残骸が」


相馬は言葉を失った。


神田の言葉を聞き、あの夢が思い出補正などではなく、自分が、かつて、本当に味わった「手遅れの絶望」そのものだったと確信した。


相馬の表情の劇的な変化を見て、神田はすべてを察したように、深く、ゆっくりと息を吐き出した。その顔に、先ほどまでの張り詰めた鋭さはなく、ただ底知れない悲哀だけが残っていた。


「……責めるつもりは、毛頭ありません」


神田は自嘲気味に、力なく首を振った。


「俺は彩華を取り戻したい。それだけです。……相馬さん、あなたの過去改変は、意図しない偶然の産物だったかもしれない。でも、俺が今ここでやろうとしていることは違う。」


「俺は今、自分の妻の命を取り戻すために、あなたの奥さんを死へ追いやろうとしている。自分の意思で、明確なエゴを持って、あなたの『20年間の幸福』を壊しに来た。……俺は今、最低の化け物だ」


少し間が空いて、神田が掠れた声でぽつりと言った。


「……ここに来るまでは、この事実をあなたに突きつけて、頭を下げて、世界を元に戻してくれと頼むつもりでした。それしか頭になかった。彩華を、俺の妻を取り戻すためなら、なんだってするつもりだった」


神田はテーブルの上のスクラップブックに視線を落とし、力なく首を振る。


「でも、この一週間、あなたを、あなた達お二人を見ていたら……。あなたはクズな過去を捨てて、必死に汗を流して今の地位を築いた。奥さんは、周囲の誰もが愛するような、おっとりとした、本当に優しい女性だ。二人が笑い合っている姿を遠くから見ているうちに、胸が、狂いそうなほど痛くなった。」


神田は自分の頭を強く抱え、血の滲むような本音を吐き出した。


「俺がやろうとしていることは、何の罪もないあなたの奥さんを、20年前の冷たいアスファルトの上へ追い返すことだ。自分の妻を救うために、他人の大切な人を殺す。……そんなことが、本当に許されるのか? 許してもらえるのか。」


「分からないんです。どうすべきか。」

神田は相馬を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、相馬を責める色は微塵もなかった。ただ、答えのない暗闇で溺れているような、圧倒的な迷いだけがあった。


「論理的には、これが事実だ。でも、感情が、倫理が、どうしても割り切れない。俺は彩華に会いたい。でも、そのためにあなた方の20年を丸ごと消し去る権利なんて、俺にはない。……正直に言います。俺自身、どうすればいいのか、もう何も分からない。」


「でも、このまま何もしないわけにもいかない。申し訳ない。本当に申し訳ない。」


神田は立ち上がり、コートを手に取った。相馬を脅すでもなく、懇願するでもなく、ただ、自分と同じように「歪んだ因果」の狭間に立たされた一人の人間に、その痛みを分け合うように静かに言った。


「ただ……過去が変わった因果の起点が、あなたの存在なのは間違いない。だから、あなたに会えば解決すると思っていた。この残酷な事実を、あなたにも背負って欲しかった。俺一人では、もう抱えきれなかった……。こんな卑怯なことをして、本当に申し訳ない」


神田はそれ以上何も言わず、静かに応接室のドアへ向かった。

カチャリ、と静かにドアが閉まり、応接室には相馬一人だけが取り残された。

エアコンの微かな稼働音だけが響く静寂の中で、相馬は自分の手が、止まらない恐怖で激しく震えていることに気がついた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。