追及
「まずは事実A、私の記憶では、私は彩華と2025年に結婚し、共に暮らしていました。彼女は生前、私にこう言ったんです。『高校生の頃、ネットである悲惨な死亡事故の記事を読んで怖くなり、通学路を変えたから、私は事故に遭わずに済んだ。その記事を書いた記者さんは私の命の恩人だ』と。
その記事の執筆者は、私の新聞記者としての師匠である、大滝というベテラン記者でした。
私は新人時代、文章の手本として、その記事のスクラップを暗唱できるほど読み込んでいました。そして、次に事実B。2006年7月、地方都市で一人の女子高生が登校中にトラックに巻き込まれて死亡しました。名前は佐伯彩華。私の妻になるはずだった女性です。世界は、彼女が16歳で死亡したという『事実』のまま現在まで進行しており、そのため私は独身です。これが客観的事実です」
相馬は無言で頷いた。狂気じみた話だが、神田の話し方があまりにも理路整然としているため、拒絶するタイミングを失っていた。
「ここからが本題です」
神田は鞄から、一冊の分厚い革製のファイルを静かに取り出し、テーブルの上へ滑らせた。ボロボロに使い込まれたスクラップブックだ。
「世界が変わり、目が覚めて独身になった私は、大滝さんのスクラップを調べました。……しかし、私が暗唱できるほど読み込んだはずの、その『死亡事故の記事』だけが、スクラップからも、本社のデジタルアーカイブからも、綺麗に消滅していました。事故そのものが『起きなかったこと』になっていたからです」
神田は身を乗り出し、相馬を真っ直ぐに見据えた。
「事故が起きなかったから、記事は書かれなかった。記事が存在しないから、高校生の彩華はそれを読めず、通学路を変えなかった。だから、彩華は予定通りに事故に遭って死んだ。――三浦紬という女性が事故にあわず、生き残ったことで、私の妻が死んだんです」
「っ……!?」
『三浦紬』。
突然飛び出してきた最愛の妻の名前に、相馬は椅子の背に激しく背中を打ち付けた。息が詰まる。なぜ、この男が紬の名前を知っている?!
そして、相馬は最近よく見るあの悪夢を思い出した。
紬が23歳で交通事故で死んでおり、自分がクズな他責思考のまま40代になり、紬の死を知って狭い1DKで泣き叫ぶ、薄暗くて、救いのない、最低の夢。
相馬は動揺を隠すように冷静を装った。
神田は気にせず、淡々と事実を話し始めた。
「私は、あなた方の地元へ行き、当時の周辺住民や、高校の同級生、そして阿部さんというご友人にも取材をしました。そこで判明した『事実』を並べます」
神田は手元の資料を指差していく。
「2006年4月13日午前7時52分。三浦紬さんは地元で通勤中に事故に遭うはずだった。なぜか突然、東京へあなたに会いに行った。結果、彼女は事故現場から消え、生存した。……そして、もう一つの事実。当時、要領だけで生き、遊び呆けて実家からの着信すら拒否していた軽薄な男だった相馬篤史は、その時期を境に、まるで何かに取り憑かれたように誠実に、必死に働き始めている。それこそ、現在の『大城開発の優秀な営業課長』に至るほどに」
ドクン、と相馬の心臓が爆音を立てた。
大学2年の終わりに、突然、紬が俺に会いに来たことがあった。その日から無駄にした時間を取り戻すため、必死に勉強し、就職活動に励んだ強烈な記憶が、一気に脳裏に蘇った。
理由は分からなかったが、心から紬を幸せにしたいという気持ちが溢れていた。
そして2006年4月13日、その日は紬が俺にと暮らすために上京してきた日だ。
「私の仮説を言います。相馬さん、あなたは上書きされる前の元の世界線で、三浦紬を亡くしている。その手遅れの絶望の中で、あなたは何らかの手段を使い、過去の1点へと意識をダイブさせ、彼女の行動を変えた。……違いますか?」
応接室は、静寂に包まれた。時計の秒針の音だけが響く。




