誰のための日常
2026年の春の陽気は、今の神田にとっては、ただひたすらに冷え切ったものに感じられた。
品川区内にある分譲マンションの敷地外から、神田は双眼鏡を収め、トレンチコートのポケットに手を突っ込んだ。視線の先では、相馬篤史と、その妻である紬が、仲睦まじくゴミ出しに出てくる姿があった。
相馬が紬の肩をすくめて笑い、紬がそれを見ておっとりと微笑み返す。どこにでもある、絵に描いたような幸せな夫婦の日常。
神田はこの一週間、仕事の合間を縫って相馬篤史という男の周辺を洗っていた。
SNSの過去ログ、近所の評判、職場の噂など調べられることは全て調べた。
判明したのは、相馬が若い頃の軽薄さを捨て、今は会社で営業課長として部下に慕われ、妻を深く愛して実直に生きているという「事実」だけだった。
妻の紬もそうだ。近所の評判はすこぶる良く、誰に対しても笑顔を絶やさない穏やかな女性。
「いつもおっとりしてね、すれ違うと必ずニコって笑ってくれる、太陽みたいな子だったよ」
「特別な美人とか天才ってわけじゃない。でもね、あの子がそこにいるだけで、周りがふっと明るくなる。そんな普通の、本当に優しい良い子だった」
どこまでも平凡で、だからこそ周囲をそっと包み込むような、あの確かな温かさだった。
聞き込みのメモが増えるたび、神田の胸は鉛を飲んだように重くなった。
悪人なら、どれだけ楽だっただろう。相馬がエゴの塊で、紬が傲慢な女だったなら、どれだけ冷酷になれただろう。
悪人なら、どれだけ楽だっただろう。
神田の頭の中に、冷徹な記者としてのロジックが囁く。
──もし、自分の仮説が正しいのなら。
2006年4月に三浦紬が死に、大滝の記事が世に出ていれば、この二人の関係そのものが存在しなかったはずだ。相馬は一生、自分が救えなかった女性の影に怯えて生きていたかもしれない。あるいは、全く別の人間になっていたかもしれない。
しかし、現実の相馬は救われた。彼女と共に生きることで、かつての軽薄さを捨て、真っ当で、誠実な、誰かに慕われる男へと変わることができたのだ。
一人の人間の命が救われることで、その周囲の未来までが優しく書き換わっていく。それは本来、奇跡と呼ぶべき祝福のはずだった。
──だが、その奇跡の煽りを喰らって、俺の彩華は死んだ。
その事実を思い出すたび、神田の胸の奥で何とも言えない感情が溢れてきた。
なぜ、この二人が笑うために、会ったこともない三浦紬が生きるために、俺の愛した女性が20年前に冷たいアスファルトの上で命を散らさなければならなかったのだ。
この二人には何の罪もない。運命のいたずらとしか言いようがない。
神田はコートのポケットの中で、取材ノートを握りしめた。
指先が白くなるほど力がこもる。
(俺は今から、この何の罪もない二人の幸せを壊そうとしている。この温かい日常を奪い、あの女性を20年前の冷たいアスファルトの上へ追い返そうとしているんだ)
それは記者としての正義ではない。ただの身勝手なエゴだ。
他人の命と引き換えに、自分の妻だった彩華をあの世から引っ張り上げようとする、悪魔の所業。
じわりと、手の平に冷たい汗がにじむ。どれだけ世界が上書きされようと、神田の脳裏には、彩華と過ごしたリビングの匂いが、彼女の笑い声が、消えない火傷のように残り続けている。彼女は確かに生きていた。俺の隣で笑っていた。
「……すまない。でも俺は、真実を、彩華を取り戻す。」
誰にともなく呟いた。
20年前、この世界の因果を歪めた男から、真実をすべて剥ぎ取るために。
神田は相馬の勤務先が入るオフィスビルへと、迷いのない足取りで歩き出した。




