愛する人
翌朝、昨日の死亡事故の記事のことを調べる余裕もなく、大手ゼネコンの談合疑惑の記事を明日の朝刊の一面に乗せるため、編集局は戦場と化していた。取材で得た膨大な証言を精査し、裏付けを取り、関係各所への容赦ない確認電話に追われる。休む暇など、文字通り一秒もなかった。何とか知り合いの刑事に電話し、調べてもらうように依頼することはできたが、返事が気になって仕方なかった。
その日の夜19時頃にようやく全ての記事の入稿が完了した。張り詰めていた空気が抜け、編集局のデスクで神田はようやく深く息を吐き出した。
(あの死亡事故の記事のことを調べなければ。刑事さんから返事が届いていれば良いが。)
一息つくと同時に、神田は心の中でそう思った。ただ何故、自分がこの事故にこんなにも執着しているのかを疑問に感じ始めていた。人が死亡した記事など初めから無い方が良い。誰も死んでいないのだから何の問題もない。
神田はスマートフォンの通知に刑事からのメールの返信通知を見つけた。心臓の鼓動が一気に早くなった。震える手で返信メールを開いた。
「お問い合わせいただいた死亡事故は発生していませんでした。」
神田はこの一文を何度も読み返したが、どうにもならない。
「単なる勘違いだ。きっとそうだ。今日は帰ってゆっくり休んで、明日もう一度、大滝さんのスクラップブックを見直せばいい 。」
神田は自分に言い聞かせるように言いながら、帰り支度を始めた。ふと時計を見る。
「19時か。久しぶりに早く家に帰れる。」
――この調子だと、仕事し過ぎだとまた、叱られるな。
神田の指先が、鞄のストラップを掴んだままピタリと止まった。
「叱られる?…誰に?」
独身、世田谷のワンルームでの一人暮らし。それが神田智治という男の明確なプロフィールだ。誰かに叱られることなどない。それなのに何故そう感じた?
最近の違和感が、一気に脳内で交錯する。先輩とのやり取り、スクラップブックから消えた記事、そして今脳裏をよぎった「叱られる」という奇妙な既視感。
何度も頭の中で考えながら、帰宅したが答えは見つからなかった。
「クソ。手詰まり感が否めないな。どうする……」
パソコンのキーボードから手を放し、椅子の背もたれを大きく後ろに倒した。大きくため息をしながら、天井を見上げて目を閉じる。
――「全力前進!因果応報、色々あるけどなんとかなる!」――
その瞬間、頭の中で「別の記憶」が強烈に自らの存在を主張し始めた。
違和感の原因は、これだ!
「彩華…」
俺はこの女性のことを知っている。
彩華とは今年で結婚3年目を迎えていたはずだ。
6年前のあの日。初めて大きな記事を任され、何度もやり直しを命じられ、毎日悩み続けていた時期。
共用部の自動販売機の前のソファーに座り、背もたれに体を預け天井を見上げて、独り言をぶつくさ言っていた。そんなことを何日も続けていた時のことだ。
「全力前進! 因果応報、色々あるけどなんとかなる!」
声のする方を向くと一人の女性がいた。その女性が彩華だった。今思うと、考えてから行動する彩華にぴったりの言葉だと思うが、当時の俺はあまりの文章のバランスの悪さに呆気にとられるしかなかった。
「なんとかなりますよ。ぜったい!」
彩華はそう言って、ちょっと照れた笑顔で自分のオフィスへと戻っていた。
呆然としながら編集局に戻り、デスクの前で深呼吸する。不思議と、ガチガチだった肩の力が抜けていた。(なんとかなる、か……)根拠のないその言葉を不思議とお守りのように感じながら、俺はあの一大スクラップを書き上げることができたのだ。
その日から、共用部で一緒になるたびに話をするようになった。お互いを知り、自然と交際に発展し、三年前の春に結婚した。
なのに、なぜこの世界には彼女の形跡が一切ない?
(明日、彩華が勤めている商社に行ってみよう。そこに彼女がいれば、すべてが分かる)
だが、もし、あのオフィスに彼女の席すら無かったら──?
底知れない恐怖に身体を震わせながらも、神田はようやく、確かな一歩を前に踏み出し始めた。




